<鹿島硬式野球部都市対抗の軌跡>

最終回は、2011年3月11日の大震災時の都市対抗野球について、当時のマネージャーであった荒巻寿典さんに当時のことを振り返って頂きました。

 

【最終回】 示せ今こそ鹿島の力を  (当時のマネージャー 荒巻寿典)

 

2011年3月11日、スポニチ大会で神宮球場にいた。予選リーグを3連勝で勝ち抜き、決勝トーナメントでJX-ENEOSと対戦し、2-3で敗れロッカールームでミーティングを行っている最中に1回目の揺れが襲った。全員ロッカールームを飛び出しスタンド、球場外へと走って避難した。2回目の大きな揺れのあと、選手はバスで鹿嶋に向け出発した。

 

高速道路は全面通行止め、一般道路は大渋滞、歩道は帰宅難民者で溢れていた。途中コンビニに寄るも食料は全て売り切れて、選手は空腹のまま殆ど動かない車中にいた。バスは翌朝4時に鹿嶋に到着、普段2時間程度のところ12時間を要し、全員疲労困憊であった。マネージャーである自分が10時頃グランドに状況を見に行ったところ愕然とした。グランドが液状化で大変なことになっていた。

 

選手も鹿嶋に帰り事の大きさに気付き、野球をしている場合ではない、会社の手伝いをしなければと全員が取り組んだ。支援物資を体育館に運び入れたり、水、食料を近隣の市町村まで運んだりした。まさに野球どころではなかった。

 

都市対抗野球が近づいてきたが、グランドが使えず、他県のグランドを転々としながら練習を行った。普段とは違う環境であり、選手は今までの環境の素晴らしさを改めて実感したと思う。会社が大変な時期に野球をやらせて頂いている。社員の皆さんに勇気と元気を与えるため全員が一つの目標に必死だったことを覚えている。

 

予選の戦いは、県大会が開催される日立市民球場が被災したため、笠間市民球場での開催となった。決勝で日立製作所に敗れたが、北関東予選では絶対に借りを返すという気持ちでその後の練習に取り組んだ。

迎えた北関東予選。準決勝で富士重工業を倒し、決勝は日立製作所と対戦。全員が一つになり戦った結果6-3で快勝し、都市対抗本大会への出場を決めた。本大会は震災の影響で10月下旬に大阪で開催されることになり、予選が終わり本大会まで4ケ月、みっちりと練習を重ね本大会に臨んだ。

 

本大会の初戦、23000人超の大応援団が大阪ドームをコバルトブルーで染め、まさにスタンドが一体となり強い気持ちで戦えたことを思い出す。

試合は準々決勝を勝ち抜き2年連続で「黄獅子旗」を獲得し、昨年のベスト4がフロックでなかったことが証明でき、「鹿島の力を示せた」と感じた瞬間であった。

111023 三菱重工名古屋 応援 (19)                  スタンドを埋め尽くした大応援団

私自身、選手で4回、マネージャーで5回都市対抗野球を経験でき、いい思い出、辛い思い出、悔しい思い出とたくさんある。

 

最後に現役選手へ、プライドを持って、日々レベルアップを図り、結果を求めて下さい。統合時に苦労して作った新日鐵住金KASHIMAのユニホームで勝利の輪を作ってほしいと思います。頑張れ鹿島硬式野球部。

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現在の荒巻寿典さん

 

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