<第87回都市対抗野球大会>

日時 : 2016年7月18日(月)  10:29~12:56

◆場所 : 東京ドーム

<スコア>

チーム名 1 2 3 4 5 6 7 8 9
    JR北海道   0 1 0 0 0 0 0 1 0 2
    新日鐵住金鹿島  0 0 0 0 0 0 1 0 0 1

 

1回戦 対JR北海道(札幌市) はご覧のように1対2で負けました。

 

皆様の温かいご声援ありがとうございました。

 

 

 

<第87回 都市対抗野球大会 開幕!!>

【1回戦】

日時:7月18日(月・祝)10時30分より

対戦:札幌市(JR北海道)

会場:東京ドーム1塁側(受付テントA)

※ 入場券・応援グッズを無料でお渡しいたします1

 

戦況は下記「エフエムかしま」実況中継、もしくは「毎日新聞」ニュースサイト「日本野球連盟」ホームページでお楽しみ下さい!

 

◆「エフエムかしま」http://767fm.com

※「エフエムかしま」は「インターネットサイマルラジオ」でPC、

スマートフォンでもお楽しみいただけます。

http://www.jcbasimul.com/#kanto

◆「毎日新聞」ニュースサイト http://mainichi.jp/ama-baseball//kurojishi

◆「日本野球連盟」http://www.jaba.or.jp/

 

当ホームページ内企画

<鹿島硬式野球部都市対抗の軌跡> も、ぜひご覧ください。

 

絶大なるご声援をよろしくお願いします!!

 

 

 

<鹿島硬式野球部都市対抗の軌跡>

最終回は、2011年3月11日の大震災時の都市対抗野球について、当時のマネージャーであった荒巻寿典さんに当時のことを振り返って頂きました。

 

【最終回】 示せ今こそ鹿島の力を  (当時のマネージャー 荒巻寿典)

 

2011年3月11日、スポニチ大会で神宮球場にいた。予選リーグを3連勝で勝ち抜き、決勝トーナメントでJX-ENEOSと対戦し、2-3で敗れロッカールームでミーティングを行っている最中に1回目の揺れが襲った。全員ロッカールームを飛び出しスタンド、球場外へと走って避難した。2回目の大きな揺れのあと、選手はバスで鹿嶋に向け出発した。

 

高速道路は全面通行止め、一般道路は大渋滞、歩道は帰宅難民者で溢れていた。途中コンビニに寄るも食料は全て売り切れて、選手は空腹のまま殆ど動かない車中にいた。バスは翌朝4時に鹿嶋に到着、普段2時間程度のところ12時間を要し、全員疲労困憊であった。マネージャーである自分が10時頃グランドに状況を見に行ったところ愕然とした。グランドが液状化で大変なことになっていた。

 

選手も鹿嶋に帰り事の大きさに気付き、野球をしている場合ではない、会社の手伝いをしなければと全員が取り組んだ。支援物資を体育館に運び入れたり、水、食料を近隣の市町村まで運んだりした。まさに野球どころではなかった。

 

都市対抗野球が近づいてきたが、グランドが使えず、他県のグランドを転々としながら練習を行った。普段とは違う環境であり、選手は今までの環境の素晴らしさを改めて実感したと思う。会社が大変な時期に野球をやらせて頂いている。社員の皆さんに勇気と元気を与えるため全員が一つの目標に必死だったことを覚えている。

 

予選の戦いは、県大会が開催される日立市民球場が被災したため、笠間市民球場での開催となった。決勝で日立製作所に敗れたが、北関東予選では絶対に借りを返すという気持ちでその後の練習に取り組んだ。

迎えた北関東予選。準決勝で富士重工業を倒し、決勝は日立製作所と対戦。全員が一つになり戦った結果6-3で快勝し、都市対抗本大会への出場を決めた。本大会は震災の影響で10月下旬に大阪で開催されることになり、予選が終わり本大会まで4ケ月、みっちりと練習を重ね本大会に臨んだ。

 

本大会の初戦、23000人超の大応援団が大阪ドームをコバルトブルーで染め、まさにスタンドが一体となり強い気持ちで戦えたことを思い出す。

試合は準々決勝を勝ち抜き2年連続で「黄獅子旗」を獲得し、昨年のベスト4がフロックでなかったことが証明でき、「鹿島の力を示せた」と感じた瞬間であった。

111023 三菱重工名古屋 応援 (19)                  スタンドを埋め尽くした大応援団

私自身、選手で4回、マネージャーで5回都市対抗野球を経験でき、いい思い出、辛い思い出、悔しい思い出とたくさんある。

 

最後に現役選手へ、プライドを持って、日々レベルアップを図り、結果を求めて下さい。統合時に苦労して作った新日鐵住金KASHIMAのユニホームで勝利の輪を作ってほしいと思います。頑張れ鹿島硬式野球部。

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現在の荒巻寿典さん

 

<鹿島硬式野球部都市対抗の軌跡>

第4回は、2010年、2011年と2年連続で「黄獅子旗」を獲得した時の監督、平野和男さんに当時の思いを振り返って頂きました。

 

【第Ⅳ部】 勝利への執着心~情熱・魂の結束~  (当時の監督(現野球部顧) 平野和男)

 

2010年は2年連続で都市対抗本大会出場を逃し、何が何でも都市対抗本大会に出るんだという強い覚悟を持ってスタートした。

この年のチームの特徴は、休部した日産自動車からエース石田が移籍して投手陣の柱となり、攻撃陣は4番二村を中心に前後をベテラン・中堅・若手とバランスよく打線を組むことができた。

 

北関東予選(2005年から2チーム出場となり、4チームによるリーグ戦方式となった)は、初戦日立製作所に完敗し、2戦目富士重工業戦も9回裏2アウトまでリードを許し、追いつめられたがキャプテン橋本の一振り逆転サヨナラ満塁ホームランで劇的な幕切れとなり、本大会出場に望みを繋いだ。

翌日の3戦目で全足利クラブを破り、3年振りに本大会出場を決めた。最後まであきらめず、粘り強く戦う住金野球を見せられた瞬間であったと思っている。

 

本大会は予選で劇的な勝利を収めた勢いのまま臨み、富士重工業からの補強選手も十分機能して戦えた本大会であった。

1回戦対九州三菱自動車

石田と相手エースとの投げ合いとなり、緊迫した投手戦を演じた。1点を争う試合展開のなか、9回福盛の決勝タイムリーで勝ち越し、2-1で勝利。

(8回にエラーした福盛に取り返してこいと送り出し、よくぞ打ってくれたと思う。)

2回戦対伯和ビクトリーズ

1回戦同様にエース同士の投げ合いとなり、またも1点を争う試合になった。タイブレークとなった延長11回代打橋本のタイムリー、新人小島(現オリックス)のスリーベースで4点を取り、5-1で勝利した。

準々決勝対ヤマハ

序盤に4番二村のホームラン等で4点を先取し、先発小出(富士重工業より補強)の熱投もあり、何とか4-3で逃げ切った試合であった。

準決勝対東芝

優勝候補の最右翼である東芝と対戦。エース石田が期待通りのピッチングを見せ、強豪東芝を2点に押さえたが、打線が相手投手に沈黙し、0-2で敗れた。

 

本大会では、特に先取点を意識し、できるだけ自分達のペースで試合運びができるように意識し、勝利への執着、チーム全員の結束を掲げ采配をしたことを覚えている。

また、初戦21000人を超える大応援団に大きなパワーをもらい、背中を押してもらい、応援団の皆さんと一体となって戦い「黄獅子旗」を獲得出来たと確信している。

野球ができる喜び実感し、会社、職場、地域の皆様に感謝の気持ちを改めて感じた瞬間であった。

 

最後に現役選手へ、3年間の思いを込めて戦ってほしい。どのチームにも優勝のチャンスはある。出来る限りの準備をして自信をもって堂々と戦ってほしい。

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本大会出場を決め、胴上げされる当時の平野和男さん

 

<鹿島硬式野球部都市対抗の軌跡>

第3回目は、2000年都市対抗野球大会で初めて「黄獅子旗」を獲得した時の監督、川島浩さんに当時の都市対抗予選並びに本大会の内容を振り返って頂きました。

 

【第Ⅲ部】 初の「黄獅子旗」獲得   (当時の監督(現野球部顧問) 川島浩)

 

1999年末に和歌山野球団が50年の歴史に幕を降ろし、6名の選手が鹿島に移籍してきた。鹿島野球部とこの6名の移籍選手が一体となって戦ったことを覚えている。

 

都市対抗県予選で日立製作所に11-3で勝利し優勝。茨城県第一位で北関東予選に進んだ。

北関東予選では順調に代表決定戦まで進み、富士重工業と対戦、前半リードするもダメ押し点が取れず、7回に逆転され6-7で逃げ切られ2位決定戦に回った。

2位決定戦(勝てば関東代表決定戦へ)は日立製作所との戦いとなり、この試合も前半リードするものの接戦の戦いとなったが、からくも5-4で逃げ切り、関東代表決定戦に進出し東京ドーム出場への望みを繋いだ。

関東代表決定戦まで10日間という間があり、調整に苦労した記憶が残っている。

 

関東代表決定戦は、南関東の強豪日本通運。

試合当日球場に入った時、相手チームの予想されたエース級の先発投手の姿が見えず、相手の先発投手を確信でき、気持ちに余裕ができたことを今でも鮮明に覚えている。

試合は初回から攻撃の手を緩めることなく攻め続け、投げては原田・平良の継投で11-4の大差で勝ち、2年振りの都市対抗本大会出場を決めた。勝利が決まった瞬間は、前年出場に出場出来なかったこともあり、喜びよりもホッとした気持ちであった。

この予選を振り返ると、4月の日立市長杯で初優勝して選手が自信を持って戦ってくれた。

 

本大会の1回戦は同業他社の川鉄水島戦と決まり、周りからは「絶対に負けるなよ!」とプレッシャーをかけられ、これは負けたら大変だと思った。

1回戦対川鉄水島

前半から点の取り合いとなったが、終盤に一鍬田、青木の本塁打攻勢で突き放し、原田・平良の継投で10-6で勝利した。

勝った瞬間、応援頂いた方々からの激に報いることができ、ホッと胸をなでおろした試合であった。

2回戦対日石三菱

本大会の優勝候補の一角である相手。やっつけるには絶好の相手、勝てそうな気がしていた。試合は初回から松本の本塁打などで攻め、投げては原田が183球の熱投で完投。9-2と優勝候補相手に完勝した試合であった。

準々決勝対三菱自動車岡崎

1点を争う試合となり、投手陣の好投、しっかりとした守備で守り切り、2-1で勝利した。ただ誤算は準決勝で先発予定の原田を投入せざるを得なかったことである。

準決勝対三菱自動車川崎

日石三菱と同様に優勝候補の最右翼である。前半1点リードで進んだが、4回に相手の集中攻撃を受け、1イニング13失点。勝負は決した。

 

この年は和歌山野球団からの6名の選手を迎え、泥臭い粘りの住金野球を全うすることができ、且つ結果を残せたことに満足ではあった。

前年に都市対抗本大会に出場できなかった屈辱と、地獄の練習を味わった選手の成長であった。しかし、目標の北関東第一代表を掴めなかったことが残念であった。

(翌年、日立製作所を破って念願の第一代表を掴んだ)

 

最後に現役選手へ、晴れの舞台で自分として、チームとして普段通りのパフォーマンスをして下さい。そうすれば自ずと結果はついてきます。勝ちたい勝ちたいと思うよりも、俺たちは負けないという気持ちで最後まであきらめず戦って下さい。

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黄獅子旗を授与を見つめる当時の川島浩さん

<鹿島硬式野球部都市対抗の軌跡>

第2回目は、都市対抗本大会に初めて出場した時の監督、入田耕三さんに当時を振り返って頂きました。

 

【第Ⅱ部】 「初出場は最高の瞬間」 (初出場時の監督(現野球部顧問)入田耕三)

 

1975年(昭和50年)の創部以降、都市対抗予選では宿敵日立製作所、富士重工業の壁が破れず、今一歩のところで本大会出場が叶わなかった。

中でも一番は、1977年(昭和52年)創部3年目のことである。茨城県予選で日立製作所を破り初優勝、北関東予選では順調に決勝戦まで勝ち進み日立製作所と対戦、惜しくも敗れ都市対抗野球本大会への難しさを味わったものである。

 

1983年(昭和58年)都市対抗野球大会出場。苦節9年目のことであった。

エース関口(のちに4代目監督)、捕手岩切(この年のドラフトで阪神タイガースへ)のバッテリーを中心に、しっかり守って味方の攻撃を待つというチームであった。また、ベテランと若手をミックスさせ常に競争意識を持たせたたのを覚えている。

予選の戦いは苦しい道のりであった。茨城県予選で日立製作所を破り3度目の優勝。北関東予選でも順調に勝ち進み決勝は富士重工業。相手エースを打てず敗戦。ここから苦しい道のりがつづいた。第2位決定戦(当時、南北関東で1枠があり、北関東2位と南関東3位で1枠を争った)ではチーム一丸となり日立製作所に挑み、粘りに粘り逃げきりでプレーオフ進出を決めた。

 

プレーオフは南関東の電々関東(現NTT東日本の前身)、8回裏に若い選手二人が活躍し逆転、念願の都市対抗野球出場を決めた。最高の瞬間であった。感激で涙が止まらなかったのを覚えている。

この年、大森野球部長(野球部創設に当時の赤羽所長と共に尽力された初代部長)の転勤が決まり、最後の都市対抗野球であり、なんとしても都市対抗本大会に出場し、当時の後楽園球場のベンチにと思う一心で取り組んだことを思い出す。

 

本大会での一回戦は、京都市代表の三菱自動車京都(現在休部中)と対戦。外野席まで埋まる大応援団のもと、初回に先制するもその後追いつかれ延長戦に突入し、延長12回力尽き敗戦。残念な結果であったが、大応援団のもと選手が物おじせず力一杯戦ってくれた事に満足もした思いもあった。

都市対抗野球出場に際し、会社の従業員、地域の皆さんから多くの激励を受けました。

都市対抗野球は社会人野球の華であり、最高の舞台に出場出来た事は思い出として今も残っている。

 

最後に現役の選手へ、都市対抗野球は社会人野球の最高の舞台である。その舞台に立って思い切り悔いのないよう力一杯のプレーをした下さい。そして「日本一」である「黒獅子旗」を鹿嶋の地に持ち帰って下さい。頑張れ‼

当時の入田監督

都市対抗本大会で戦況を見守る当時の入田耕三さん

 

 

<鹿島硬式野球部都市対抗の軌跡>

鹿島硬式野球部が3年振り16回目の都市対抗野球本大会出場を決めた。

今回、今までの野球部の歴史についてOBの皆さんに当時の様子などを伺った。

 

第1回目は、硬式野球部創部当時の思い出を、創部当時のメンバーである永峰幸俊さんに振り返って頂きました。

 

【第Ⅰ部】 歴史をつくろう「泥臭く、粘り強い野球」の原点  (前OB会長 永峰幸俊)

 

1974年、当時の赤羽製鉄所長が茨城県庁に知事を訪ねた時、偶然都市対抗本大会の出場報告で知事室に表敬訪問に来ていた日立製作所野球部を見て、「鹿島にも野球部を創ろう」と思い、本社や関係先を説得して鹿島野球部を設立。

1974年(昭和49年)9月に設立が決まり、翌年1月にチーム設立という非常に短期間での準備であった。

当時の和歌山野球団からの移籍者、OB、鹿島製鐵所軟式野球部の一部の選手、入部テストを合格した地元茨城県のクラブチームの選手等々とメンバー集めに苦労しながらチームのスタートとなった。

 

専用グランドもなく、神栖町(現神栖市)の神之池グランドで練習、トラックでバッティングゲージを運ぶなど大変苦労をしたが全員新しいチームで一つになり歴史を創ろうという思いのもと頑張った時代であった。

1975年(昭和50年)4月、念願の専用グランドが完成し、和歌山野球団、茨城県の強豪(のちの宿敵となるチーム)日立製作所を招きグランド開きの招待試合を行い、いよいよ社会人野球としてのスタートをきった。

 

午前中は職場で仕事、午後は練習という中で両立を目指し、仕事も野球にも一生懸命取り組んでいた。

その思いが叶ったのは創部2年目の日本選手権大会出場である。関東予選で強豪熊谷組、東芝を破り全国大会に初出場、予想もしない結果であったが、チーム一丸となって戦った結果でもあった。

 

創部当時は専用の宿舎もなく、独身者は鹿島町(現鹿嶋市)の「ホテルがんけ」で共同生活を送っていた。その後鹿島町鉢形(現鹿嶋市鉢形)にサッカー団(現アントラーズの前身)と一緒の宿舎「雄飛寮(ゆうひりょう)」が完成し入寮した。

サッカー団も野球部と同時期に製鋼所から鹿島に移り、まだ日本リーグ2部であったがサッカー団と野球部が切磋琢磨し上を目指した。

 

当時は和歌山野球団を追い越せという反骨精神のもと、大声を出し、土にまみれ、一生懸命球を追い、泥臭く取り組んでいた。今の「泥臭く、粘り強い野球」の原点である。

最後に現役の選手へ、その原点である「泥臭く、粘り強い野球」を発揮し一戦一戦大事に戦い念願である「黒獅子旗」を獲得して下さい。

創部メンバー集合写真

発足時のメンバー(後列左から3人目が永峰幸俊さん)

 

 

 

 

第87回都市対抗野球大会壮行会を開催しました

7月8日(金)12:30より鹿島製鐵所エントランス前において、都市対抗野球大会に向けた壮行会を開催致しました。

多数の従業員が見守る中、服部部長の挨拶のあと、中島監督、福盛主将の力強い決意表明がありました。

所長、後援会長からは温かい激励のお言葉を頂きました。

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服部野球部長

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中島監督

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福盛主将

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竹中所長

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 木村後援会長

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 応援団による激励のエール

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花束贈呈

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激励する従業員の皆さん

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マスコットのナスカちゃん

<第87回都市対抗野球大会応援募集のお知らせ>

第87回都市対抗野球大会の応援募集のお知らせを致します。

 

新日鐵住金鹿島硬式野球部後援会にご加入の皆様には、東京ドーム直行バスでの応援参加のお知らせを郵送しておりますので、是非、東京ドームでの応援よろしくお願いします。

(本日、発送予定です)

尚、現地に直接お越しの際は、お申し込みは必要ありませんので、ご家族、ご親戚、ご友人の方々などお誘い合わせの上、多くの方に参加頂けると幸いです。

また、新日鐵住金鹿島硬式野球部の後援会に未加入の方は、是非この機会にご加入下さい。