選手の軌跡

<選手の軌跡 ~島田 直人~>

2016/03/28

第21号  「気持ちを前に前に押して行く」

 

島田 直人 (しまだ なおと) 外野手

茨城県出身  帝京高校 - 日本体育大学

 

「カーン」と芯を捉えた力強い打球が何本も外野に飛んでいく。野球部のキャンプの特打ち練習、バッティングゲージの中に島田選手が入っていた。

地元茨城県霞ケ浦市出身の島田選手に幼少時代からの話を伺った。

島田選手は小学校3年生の時に地元の野球チームに入団。父親も大の野球好きで会社の野球チームに所属し、家に帰るとテレビの巨人戦は欠かさず観ていた。そんな家庭の中で自然と野球少年として島田選手は育った。

 

島田選手は中学校時代に部活で軟式野球部に所属し、また部活が終わると硬式野球も学ぶ事ができる地元の塾「IST(イスト)」で徹底的に練習した。本人の記憶では、1日に500~600回のティーバッティングをやっていたという。島田選手のスイングが速く力強いバッティングの基礎を築いた時代だ。

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中学時代の島田選手

 

 

中学を卒業後、東京の帝京高校に進学した。甲子園の常連校として名を馳せる帝京高校で大事にしたことは「文武両道」。厳しい練習を行う野球はもちろんのこと、学問でも結果を求められていた。つらくても気持ちを前に向けて頑張っていった。甲子園は3年生の時の春のセンバツに出場。ベスト8まで進出したが、対戦相手は興南高校(沖縄県)、島袋投手(現福岡ソフトバンク)を攻略できず0-5の完封負けを喫した。本人の記憶では「打てない球ではなかったが抑えられてしまった。」苦い思い出の試合だが、大観衆の中でのプレーは中々経験できないことであり、「独特の雰囲気があった。」

 

大学進学は野球をしながら体育全般のことを学べる日本体育大学に進学。教員免許も取得した。3年生の時2013年の全日本大学野球選手権ではベスト4まで進出したが、準決勝では山崎投手(現横浜DeNA)擁する亜細亜大学に3-6で敗れた。

 

鹿島硬式野球部に所属する現在は「自分は主軸を張れるよう、ここぞという時に1発を打ってチームに良い流れを導き、試合の勝利に繋げたい。」

2016年シーズンの島田選手の力強いバッティングがとても楽しみだ。

 

(記:後援会)

 


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<選手の軌跡~樋口 瑠偉~>

2016/03/25

第20号  「試合を決めたサヨナラの一打」

 

 

樋口 瑠偉 (ひぐち るい) 投手

長崎県出身  壱岐商業高校 - 日本文理大学

 

 

長崎県の壱岐市出身の樋口選手。九州と対馬の間にある島で生まれた樋口少年は小学校1年の時に野球を始めた。野球を始めるまではサッカーや、水泳をして外で遊びまわっていた。樋口瑠偉選手の「瑠偉」は元プロサッカー選手のラモス瑠偉に因んで付けられたとのこと。本人はサッカー遊びを結構楽しんでいたが、壱岐市はサッカーが盛んというわけでもなく、「スポーツと言えば野球」という中で、周りの友達が野球で頑張っているのを見て自然と野球の輪の中に入っていった。小学校の軟式野球のクラブに入部して、最初からピッチャーだった。

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小学校時代の樋口選手

 

樋口選手は地元の壱岐商業高校に進学。野球部で1年生からベンチ入りした。

今でも覚えている試合は2年生の時の夏の大会で初戦諫早東高校との対戦。中指を負傷しそのまま投げ続けたが、球も走らず失点を喫してしまう。流れは諫早東高校に行き負けを覚悟した。「先輩たちの夏が終わってしまう。申し訳ない。」ところが試合は雨天再試合と思わぬ運びとなった。翌日の試合ではライトで先発出場。9回裏2アウトランナー1塁でランナーが帰ればサヨナラの場面。打席が自分にまわってきた。「勝つためにはこのランナーを帰すしかない。ライト線一杯を狙うぞ。」集中力を高め放った一打が見事にライト線方向に飛びランナー生還、サヨナラヒットで勝利を収めた。試合を決めた一打、そして何より自分にとって忘れられない一打となった。

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高校時代の樋口選手

 

樋口選手は高校卒業後、スポーツトレーナーになって地元壱岐市で後進を育てたいと考えていたが、壱岐商業高校の遠征先での日本文理大学のスタッフの目にとまり日本文理大学に進学。そのまま野球を続けることになった。日本文理大学は部員数が280名と日本一を誇るマンモス所帯、ベンチ入り25人枠に入るのは簡単な事ではなかったが、2年生秋からベンチ入りを果たした。本人の自信に繋がる一方で、選手層が厚く代わりは直ぐに出てくる追われる立場。プレッシャーに打ち勝ち大学野球を続けた。

 

鹿島硬式野球部での自分の今の課題は「チームの勝利の為に、任されたところで確実に結果を出すこと。」2年目を迎える樋口選手の活躍を期待したい。

 

(記:後援会)

 


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<選手の軌跡~阿部達世志~>

2016/03/22

第19号  「一球の怖さ、大切さ」

 

阿部 達世志 (あべ たつよし) 投手

 

宮城県出身  東北生活文化大学高校 - 青森大学

 

 

宮城県多賀城市出身の阿部選手は野球を始めるまでは全くといっていいほど野球に興味がなく、父親ががテレビで野球観戦をしていてもチャンネルを変えてほしいと思うほど。

阿部少年が小学校でやっていたスポーツは、水泳、ドッジボール。ドッジボールは競技として大会に出場する程しっかり習っていた。水泳での腕の振りや、大きなボールを体でしっかり投げるということが、後にピッチャーとして野球をする体の素地を作っていった。

そんな阿部少年が野球と触れ合ったのは、6年生の終わり頃。親友が野球をやっていて遊びに誘われた。親友とキャッチボールをしていて楽しくなり「野球もおもしろいなぁ」と思い中学校から本格的に始めることにした。

 

中学生になって地元の硬式シニアチームに入団。小学校からの経験者が殆どの中で、一からのスタートであったが、水泳とドッジボールで培った素地がここで活き、才能が花開く。中学1年生秋からピッチャーで、中学校3年生のチーム卒団試合時には球速139㎞を記録し、様子を見に来ていた高校のスタッフを驚かせた。

シニアチーム監督の薦めもあり、新設間もない東北生活文化大学高校に進学した。専用のグランドもまだ整備されておらず、他の部活と一緒に校庭で練習する日々であった。

 

記憶に残る試合は3年生の時の夏の甲子園宮城県予選2回戦、対戦相手は東北高校。試合は4-4で終盤までもつれ込んだが、阿部投手は制球が甘くなり打者にフォアボールを出してしまう。このランナーが盗塁、味方の送球の後逸も加わってホームまで帰してしまい4-5で敗戦。自分の投球がきっかけでランナーを出し思わぬ展開を呼ぶ。阿部投手は一球の怖さ、大切さを思い知らされたという。

img-322073903-0001高校時代の阿部投手

 

同じように一球の怖さを思った試合が、その後進学した青森大学4年生の時。秋季北東北リーグ戦。八戸大学を相手に延長12回まで1失点、試合はタイブレークで決着となった。自チームが守り側になった時に、投げた球が甘く入り満塁ホームランで敗戦。またもや自身の投げた一球で試合が決まってしまった。

 

記憶に残る試合が本人にとっては不本意な試合であろうが、取材時の語り口は熱かった。

「投手はマウンドに立てば、一人一人がその時のエース。負けられないし、点もやらない。社会人野球ではただ球が速ければいいのではない。バッターの思惑を外すテクニックや、制球の良さが当然求められる。2年目に入る今の自分の課題です。」かつて高校の監督に言われた言葉を大切にしている。

「エースとはどんな状況でも負けないピッチャーの事をエースと言う。」

2年目に入る阿部投手の活躍に期待する。

 

 

(記:後援会)

 

 

 


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<選手の軌跡~堀越 匠~>

2016/02/12

第18号  「子供の頃の猛練習が自分の基礎になっている」

 

 

堀越  匠 (ほりこし たくみ) 外野手

東京都出身  浦和学院高校 - 東洋大学

 

 

東京都目黒区出身の堀越選手は、小学校1年生の時に硬式野球のクラブチームに入部し野球を始めた。三人兄弟の末っ子で父親も野球好き。「当たり前」のように野球を始めた。友達と遊ぶよりはむしろひたすら野球漬けの日々。兄弟3人、父親とともに夕方6時から晩の9時まで練習に勤しんだ。ティーバッティング、素振り、ランニング、徹底して鍛えられた。この練習は中学校を卒業するまで続き、体力・メンタル共に今の堀越選手を支える基礎を築いたのである。

中学時代の堀越選手

 

 

 

甲子園に出ることを目標に、甲子園出場の常連校、浦和学院高校に進学した。

2006年第88回夏の甲子園に出場。1番バッターとしてリードオフマンの役割を担った。

 

浦和学院高校卒業後、東洋大学に進学した。自身の記憶に残る試合は、2010年の全日本大学野球選手権決勝。対戦相手は菅野投手(現読売巨人)擁する東海大学。東洋大学も投手藤岡(現千葉ロッテ)、鈴木大地(同)ら有力プレーヤーが揃い対決。試合は5-0で完勝し、日本一の栄冠を手に入れた。

二塁ベースでガッツポーズの堀越選手(大学選手権で)

 

 

 

その後鹿島硬式野球部に入部してからも活躍し、全日本代表にも選出された。全国からそうそうたるメンバーが集う中で共に練習し試合に出場し、本人は楽しくてしかたなっかたという。メンバーのレベルの高いプレーを見てその後の自分の参考にも出来た。

 

堀越選手の野球人生の中で本人に転機といえる時期がある。大学2年生の時だ。プレーで結果が伴わず堀越選手は初めてベンチ入りを外された。スタンドから応援という本人にとっては挫折に近いものであった。3年生から再びベンチ入りしたものの代打要員。

4年生でレギュラーに戻ることはできたが苦しい時期であったという。それでも挫折から這い上がることができたのは子供の頃の猛特訓で鍛えたメンタルの強さが支えになったのかもしれない。

 

鹿島硬式野球部でプレーする今は「アグレッシブ」であることを常に心がけている。今の自分に課していることは「何が何でも離脱しないこと。1年間を通じて確実にプレーが出来ること。」2016年の「アグレッシブ」な堀越選手のプレーが楽しみだ。

 

(記:後援会)

 

 


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<選手の軌跡~嶋田 泰祐~>

2016/02/10

 

第17号  「自分を支えるもの - 負けず嫌いの性格」

 

 

嶋田 泰祐 (しまだ たいすけ) 投手

福井県出身  羽水高校 - 日本体育大学

 

 

福井県越前市出身の嶋田選手の野球との出会いは小学校1年生の時。隣近所で一緒に遊んでいた1歳上の友達が野球を始め、「じゃあ俺も!」と、少年野球団に入団。

野球を始めたといってもまだ小学校1年生。最初からボールを握るでもなく、先輩選手が練習に励むのを横目にグランドの砂いじりやグランドにいるバッタなどを追いかけて遊んでいたそうだ。

嶋田選手がピッチャーとして道を歩み始めたのは小学校5年生の時。それまでは外野を守っていたが、左利きであることはチームにとって貴重だったのだろう。左腕嶋田投手の誕生である。少年野球チームの主力として着実に成長し小学校6年生の時にはエースで4番、キャプテンを任されるまでになっていった。

 小学校時代の嶋田投手

 

 

中学校に進んだ嶋田投手は軟式野球部に所属。ここで嶋田投手曰く「カリスマ」川村監督との出会いが訪れる。2つ上兄も所属していた南越中学校野球部を県大会優勝、さらにはナゴヤドームで行われる中部日本地区選抜中学校軟式野球大会で優勝に導いた名将。

「選手が良いプレーができるよう『洗脳』するのが上手かった人だと思う。(嶋田投手)」

 

 

嶋田選手を始め主軸の選手を中心に選手皆が監督に感化され中学時代の野球生活を送ったのである。ところが、川村監督が南越中学校から福井県立羽水高校へ異動されることになった。今まで監督についてきた選手達特に主軸選手は「それなら俺たちも羽水高校に入って、監督の下で野球をやろう!」。嶋田選手は福井県内でも有数の進学校である羽水高校へ合格する為に野球部の練習後、夜遅く迄塾に通い猛勉強。見事合格した。

 

 

高校で野球部入部後、川村監督の指導の下1年生の秋からエースを託され投手陣を引っ張った。2年生の春の大会では1試合18奪三振という県記録を打ち立てた。

 中央で満面の笑みの嶋田投手(高校時代)

 

嶋田 選手に話を聞くと「自分は究極の負けず嫌い。大学進学後も高校からのエリート選手は多くいた。自分は野球では無名の羽水高校から入部。雑草魂というんですかね。とにかく負けたくなかった。今の自分を支えているのはこの性格だと思います。」

鹿島硬式野球部での目標は、先発完投。都市対抗、日本選手権ときっちりと自分の役割を果たしたいとのこと。野球部投手陣を支える嶋田投手の2016年シーズンの活躍に期待したい。

 

(記:後援会)

 

 


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<選手の軌跡~藤原 利樹~>

2016/02/08

 

第16号  「投手であり続けることで今の自分がいる」
藤原 利樹 (ふじわら としき) 投手

秋田県出身  大曲工業高校 - 常盤大学

 

 

豪雪地帯秋田県大仙市出身の藤原投手に野球との出会いからの話を伺った。

藤原投手が野球ボールを握り、投げ始めたのは小学校1年生の頃。父親とのキャッチボールを始めたのがきっかけである。近くの少年野球チームが小学校4年生からしか入れなかったこともあり、それまではひたすら自宅の庭や田んぼで野球をして過ごし、父親だけでなく母親、弟祖父までがキャッチャーをつとめた。秋田県の田舎で文字通りのびのびと幼少時代を過ごした。小学校4年生の時にクラブチームに所属。最初からピッチャーを任された。幼少時代に培われた基礎が生かされたのだろう。

 

中学校に進んだ藤原投手は軟式野球部に所属し、ピッチャーを担った。野球のみでなく、その運動センスは中学校の陸上競技でも活かされ、ハードル競技で県大会の代表まで選出されるほどであった。藤原投手といえばその長身からのピッチングが持ち味だが、中学校を卒業する時点で身長は184㎝まで伸びており一際目立つ存在だったであろう。

 

高校は地元の強豪校、大曲工業高校に進学。1年生の秋からベンチに入り、投手陣の一翼を担う。冬場は雪が積もったグラウンドの中、長靴を履いて雪に交じりながら、雪を踏みしめながらの厳しい練習に明け暮れたのである。決して恵まれた練習環境ではなかったが、そうした中でハングリー精神が養われていった。大曲工業高校は藤原投手が3年時に夏の秋田県大会でベスト8まで進んだものの、大館鳳鳴高校に0-2で完封負け。藤原投手は2番手投手でこの試合1イニングも登板できず、悔しさが残った。「このまま野球を終われない。」

高校時代の藤原投手

 

藤原投手は常盤大学に進学し、1年生秋からベンチ入り。忘れられない試合がある。1年生の秋季リーグ戦。平成国際大学相手に13回延長戦を独りで投げ抜いた。試合は12回まで0-0のまま進んでいたが、13回に味方が8得点、8-0の完封勝利で終わった。

大学時代の藤原投手

 

藤原投手に今までの野球人生を改めて振り返ってもらうと、「ピッチャーとして自分が投げ続けられたことが野球人生の中では大きい。ピッチャーでなければ野球はここまで出来ていなかったし、大きく育ててくれた家族に感謝している。」

今の鹿島硬式野球部での自身の課題は、ストレートで押して行く力強さをより高めること。Wドーム出場を目標に日々練習で投げ込む藤原投手の2016年シーズンの活躍に期待したい。

 

(記:後援会)

 

 

 

 

 


カテゴリ:藤原 利樹-選手の軌跡

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<選手の軌跡~福盛 陽平~>

2016/02/05

第15号  「忘れられない都市対抗予選」

福盛 陽平 (ふくもり ようへい) 内野手

福岡県出身  九州学院高校 - 徳山大学
福岡県北九州市出身の福盛選手の野球との出会いは4歳頃。
駄菓子屋で売っているプラスチック製の野球ボールがいつも遊ぶ時のおもちゃだったそうだ。三人兄弟の末っ子で7つ上と5つ上の兄に交じり、父親も加わって4人が自宅で練習をしていた。マウンドからバッターBOXまでの距離が実際のグランドのそれと殆ど同じ距離だったそうで、福盛少年にとってスローイングの距離はとても長く感じられたものの幼少期に強い体を作るのに役に立った。

 

クラブチームに所属し野球が本格的になるのが小学校4年生の時。地元のスポーツ少年団に入団し最初からピッチャーを任された。幼いころからの親兄弟との練習の積み重ねが生きたのだろう。その後中学校でもずっとピッチャーで通した。ピッチャーで相手に投げ勝つのが楽しくてしかたなかった。

小学生時代の福盛選手

 

 

野球少年なら誰しもが憧れる甲子園を目指すべく高校は、実績・実力ともに揃った九州学院高校に進学。ピッチャーのつもりで入部したがいきなりサードを指名された。内野手福盛選手がここに生まれる。

甲子園出場経験のある並みいる先輩たちの中で鍛えられていった。惜しくも自身は甲子園出場にはおよばなかったが、一発勝負の高校野球を通じて福盛内野手は成長していった。

高校時代の福盛選手

 

 

福盛選手に記憶に残る試合を聞くと、鹿島硬式野球部入部3年目の2010年都市対抗北関東予選。対戦相手は富士重工業、富士重工業リードで9回まで続き、試合は決まったかに思えたが、9回裏に当時のキャプテン橋本の逆転満塁サヨナラホームランで奇跡の勝利をした。野球は最後まで分からないとはまさしくこのことだった。その年本大会に出場した硬式野球部は準決勝まで進み、10年振りに黄獅子旗を獲得した。

今の硬式野球部での課題は、守備と打撃の確率をあげて行くこと。チームとして何としてでもWドームに出場する。主将としての強い意志が感じられた。

2016年シーズンの福盛主将の活躍を期待したい。

 

(記:後援会)


カテゴリ:福盛 陽平-選手の軌跡

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<選手の軌跡~渡部 和博~>

2016/02/05

第14号  「勝ち負けに関係なく甲子園を楽しめる - 甲子園での降雨ノーゲーム」

 

渡部 和博 (わたなべ かずひろ) 内野手

岡山県出身  倉敷工業高校 - 明治大学

 

 

渡部選手は白壁の町並みやマスカットの産地として有名な岡山県倉敷市の出身。

野球を始める前は、小学校で陸上競技の選手だった。倉敷市に陸上競技チームがあり、渡部少年はそこで100m走、リレー選手としてその俊足ぶりで活躍していた。

小さい頃から、両親が共働きで幼稚園等の送り迎えなどなく、登下校ではひたすら歩くことが多かったそうで、そうした日々の積み重ねも健脚の基礎を築いたのかもしれない。

 

野球との出会いは中学生になってから。地元の硬式野球のクラブチームの練習に見学に行った時に、同じ中学生がレベルの高いプレーをしていることに刺激を受け、中学生から入団。それまで野球をやっていたことなどなく小学生からの経験者の多い中で一からルールを覚えて行き、人の後を追っていく日々であった。そうした姿を見て父親から叱咤された。「人の後を追うのではなく、常に前にいてプレーしろ。」その一言で野球に対する姿勢が変わった。

セカンドを守り2番バッターとして活躍した。

 

高校への進学は、同じ硬式クラブチームでキャプテンをやっていた2年先輩に憧れて本人曰く「追っかけるように」岡山の古豪倉敷工業高校を選んだ。

渡部選手の野球人生の中で忘れられない試合は、2003年第85回夏の甲子園初戦での駒大苫小牧との対戦。4回裏までで8点を先取され厳しい展開であったが、折しも台風が通過する予報の中で行われた試合で、試合中に豪雨となり、降雨ノーゲームが決まった。渡部選手は、「勝ち負けに関係なくもう一回甲子園で試合ができるのは嬉しい。」との気持ちであった。翌日の再試合では逆に倉敷工業が5-2で勝利し次の対戦へコマを進めた。倉敷工業での厳しい練習を耐え抜いたことが報われたのである。

夏の甲子園でホームインする渡部選手

倉敷工業高校卒業後、渡部選手は明治大学に進学した。彼の記憶に残るのは大学4年時の2007年東京6大学春季リーグ戦。対戦相手は1年生の斎藤祐樹(現日ハム)擁する早稲田大学。共に6連勝であり勝てば優勝のかかった試合。2試合とも早稲田大学に敗れ惜しくも優勝を逃した。

大学時代の渡部選手

渡部選手が日頃から心がけていることは「常に早めの行動。ゆとりを持って事に臨めば周囲に迷惑もかからない。」今の硬式野球部での課題は勝負を決める一打を放つ事。

ここぞという時の勝負強さを発揮すべく日々練習に打ち込む渡部選手の活躍に期待したい。

(記:後援会)

 


カテゴリ:渡部 和博-選手の軌跡

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<選手の軌跡~藤本 雄也~>

2016/01/08

第13号  「左に藤本、右に新西 -都城商業2枚看板投手の夏の高校野球での活躍」

 

藤本 雄也 (ふじもと ゆうや) 外野手

宮崎県出身  都城商業高校 - 國學院大学

 

 

プロ野球や企業チームのキャンプ地として有名な宮崎県出身の藤本選手にこれまで歩んで来た野球人生について伺った。

子供の頃は川遊びが大好きで、魚釣りなどをして楽しんでいた。本格的に野球を始めたのは小学校3年生の時、野球が盛んに行われる風土の中「ごく自然に」野球を始めていたとのこと。ポジションは最初からピッチャー、「背番号1番」のユニフォームに憧れて投げ込む日々であった。

中学校でも地元のチームでピッチャーを担っていた藤本選手はその後、宮崎県立都城商業高校に進学し、1年生から野球部でベンチ入りし甲子園を目指すことになる。

 

2009年夏の高校野球で、都城商業高校は「左の藤本、右の新西(現光シーガルズ)」と言われた。共に140㎞を超える速球を投げる2枚看板を擁し甲子園出場をかけ大会に臨んだ。宮崎大会を順調に勝ち進み決勝戦の相手宮崎商業高校を破り、公立高校としては県内で28年振りに甲子園出場。

甲子園でも順調にコマを進め、3回戦で強豪智弁和歌山高校(和歌山県)を破り、ベスト8まで進出する快挙を成し遂げる。ベスト8では、エース堂林(現広島東洋カープ)擁する中京大中京高校(愛知県)に2-6で敗戦はしたが、念願の甲子園出場でベスト8進出という奮闘ぶりに地元宮崎は大いに沸いた。

 

藤本選手は國學院大学に進学。最初はピッチャーをやっていたが、「甲子園にも出場し、充分にピッチャーとして投げた。自分はバッティングも好きだし野手で活躍したい。」甲子園で3番打者を任されクリーンナップの一翼を担っていた藤本投手は野手に絞った。藤本選手の転機がここに訪れる。

東都大学リーグでは忘れられない試合は、平成24年春季リーグの1部・2部入替戦で日本大学(現鹿島硬式野球部、山井投手所属)との対戦。2部から1部への昇格がかかる我が國學院大学は、第1戦で藤本が2安打を打つも山井に完封負け。2戦目は藤本の3安打の活躍もあり勝利。最終第3戦は、再び山井投手が先発、「絶対に1部に上がるぞ!」との気持ちのもと、6-1で日本大学を破り見事1部昇格を決めた。

 

現在所属する鹿島硬式野球部での本人の目標は「年間を通じて打率3割を狙う事。体は小さくてもパワーヒッターとして頑張ります。」2016年の藤本選手の活躍を期待したい
                    藤本選手のバッティング

(記:後援会)

 

 


カテゴリ:藤本 雄也-選手の軌跡

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<選手の軌跡~江藤 諒~>

2016/01/08

第12号  「忘れられない春のセンバツ初出場準優勝!」

 

江藤 諒 (えとう りょう) 外野手

東京都出身  聖望学園高校 - 八戸大学

 

 

東京都足立区出身の江藤選手。3人兄弟の末っ子で4歳上と2歳上の兄が野球をやっていた。兄達の背中を追っかける様に野球を始めた。小学校1年生、江藤選手の野球人生のスタートである。

兄達と共に地元の野球チームに所属し、汗と泥にまみれ野球に打ち込む江藤少年。左利きということもあって、ポジションはピッチャーとしての期待も高く、小学校、中学校とピッチャーで通した。中学校卒業後は埼玉県の聖望学園高校に進学する。聖望学園高校で最初はピッチャーで入部したが、足の速さを買われ外野手へコンバートとなった。

 

江藤選手の野球人生で語るべきは聖望学園高校の甲子園出場であろう。2008年第80回記念春のセンバツ。聖望学園高校は前年の秋季大会の実績を携え、センバツの初出場を果たす。初出場ということもあり、「なんとか初戦突破を!」がチームの目標だったそうだ。

 

しかし、初出場での怖いもの無しの強みだろうか2回戦で小松島高校(徳島県)を破り初戦突破。3回戦では履正社高校(大阪府)と次々に相手を勝ち倒し、8強入りをする。

準々決勝の対戦相手は京都府の強豪平安高校(現龍谷大学付属平安高校)。この試合、2回裏満塁となった場面で打順1番の江藤選手に打席が回ってきた。平安高校の左腕投手の速球をレフトへ打ち返し先制のタイムリーを放つ。これで打線に火がついた。この回で一挙4点を上げ攻撃に弾みがついた。

続く3回でも聖望学園高校は2点もぎ取った後、江藤選手は3塁打を放ち2点追加。試合序盤で8点をとり、その後も試合の流れを変えることなくエースの好投で8-0の勝利。準決勝進出を果たした。

 

一度ついた勢いは止まらない。準決勝相手の千葉経済付属高校(千葉県)を4-2で破り、初出場にして決勝まで勝ち上がる。決勝の対戦相手はエース東浜(現ソフトバンク)擁する沖縄尚学高校。夢にまで見た甲子園での優勝まであと一つであったが、沖縄尚学高校(沖縄県)の猛攻に歯が立たず0-9で敗れた。やはり優勝の壁は厚かったが、初出場での準優勝ということで聖望学園高校の健闘は称えられた。

 

現在所属する鹿島硬式野球部では、打率アップを課題に練習に明け暮れる。守備でも「外野に球が来てもランナーを必ずアウトにして見せる。」気さくに取材に応じて頂きながらも強い闘志が感じられた。

外野を守る江藤選手

(記:後援会)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


カテゴリ:江藤 諒-選手の軌跡

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