選手の軌跡

<選手の軌跡  ~玉置 隆~>

2016/07/14

これまで掲載してきました<選手の軌跡>を今回号から今年入部した新人を紹介していきます。新入部員は初めての都市対抗野球大会です。本大会に向けての意気込み等を聞いていますので、是非お楽しみにして下さい。

新人特集1回目は予選で大活躍の「玉置 隆投手」です。

 

第1号 「腕がちぎれても ~魂の108球」

玉置 隆(たまき ゆたか)投手

和歌山県出身 私立和歌山商業高校 - 阪神タイガース

 

あと1アウト。最後の打者が打った球がレフトのグローブに収まった瞬間、いつもクールな玉置投手の顔がくしゃくしゃに緩んだ。北関東大会2戦目、富士重工業を相手に2安打無四球、2塁も踏ませない完璧なピッチング。まさに魂の108球だった。

そんな壮絶な予選大会を終え、代表権を掴んだ玉置投手の野球のツールに迫ってみた。

 

昨年まで阪神タイガースでプレーしていた玉置投手。今年から鹿島野球部のユニフォームに袖を通し熱い投球を見せているが、野球を始めたきっかけは意外なものだった。

さぞかし野球小僧で物心ついた時から、野球をやっていると思いきや小学1年の時に親が勝手に少年野球チームに入部届けを出していたようで、当時は嫌々野球をやっていたそうである。しかし、和歌山の自然に囲まれて育ったヤンチャな少年が、成長するに従って人より少し早い球が投げられる事に気づき、野球が少しずつ好きになっていったのもこの時期である。

そして、野球が大好きになったという中学時代を終え、私立和歌山商業高校に進学した玉置投手は3年生の夏、憧れの甲子園に出場する。2回戦で敗退はするものの、プロのスカウトの目にとまり阪神タイガースに入団する事になるのである。

 

自身のプレースタイルを「ガンガン攻める投球」、性格を「強気!プラス思考!」というように憧れの選手も「松阪大輔投手」であり、なるほど納得の玉置投手であるが、鹿島野球部に入部して感じた事などを聞いてみると、「泥臭く何処よりも熱い野球をするチーム」と返ってきた。日頃の練習や選手間の熱い思いなどを聞いて、更に自身のプレースタイルにも重なり、まさに今、熱い鹿島野球を実感しているのであろう。

 

予選を経験し、「会社や社員の熱い思いとプライドをかけた戦い」だと感じた玉置投手は、本大会での抱負を「優勝、それしかない!と」キッパリ言い放った。

「勝利を導く投手になりたい」と語った玉置投手の目は、自分のあるべき姿と明確な目標を見据えているようでもあった。

コバルトブルーの熱い魂を持つ玉置投手が、またきっと私たちに素晴らしい投球を見せてくれることであろう。

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北関東大会での玉置投手

(記:後援会)

 

<選手の軌跡 ~佐藤竜一郎~>

2016/07/13

第3号 「信頼される選手になるために」

佐藤竜一郎(さとうりゅういちろう)

内野手 栃木県出身  作新学院高校 - 法政大学  

「もういっちょうお願いします」大きな声が響き渡る。真黒に汚れたユニホーム、額から汗が溢れ、ひた向きにボールを追う守備練習中の佐藤選手の声であった。   栃木県宇都宮市出身の佐藤選手。元甲子園球児の父親の影響で野球を始めたのが小学校1年生の時。以降毎晩父親と一緒に自宅前で素振りするのが日課になり、父親から手取り足とり指導を受けた。 作新中学校に進み、宇都宮シニアに所属し、2年時には全国大会でベスト4に進出した。

  高校は地元の名門作新学院高校に進学。1年生の秋からベンチ入りを果たした。 3年生の夏、3番ショートとして学校として2年振りの甲子園出場を果たした。甲子園では4試合19打数6安打1本塁打6打点の大活躍で学校として49年振りにベスト4進出に貢献した。

  大学は東京六大学の雄、法政大学に進み、2年生春のリーグ戦から出場した。明治大3回戦に代打で出場し、リーグ戦初安打、初打点を記録した。 3年生になってレギュラーを掴み、春のリーグ戦では打率3割5分1厘をマークしベストナインを受賞した。

  鹿島硬式野球部では春先故障で少し出遅れたが、持ち前の頑張りで都市対抗予選では全試合先発としてショートを守り、3年振りの都市対抗本大会出場に貢献した。 しかし、まだまだミスがある。もっと練習を重ね「周りから信頼される選手になる」ときっぱり。 都市対抗本大会での活躍が楽しみである。 IMG_4068

現在の佐藤選手のバッティング

(記:後援会)


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<選手の軌跡 ~中村 大翼~>

2016/04/11

第23号  「兄の背中を追って始めた野球」

 

中村 大翼(なかむら だいすけ)  内野手

佐賀県出身  佐賀東高校 - 日本文理大学

 

 

中村選手は「兄の背中を追いかけて」野球を始めた。小学校2年生の時だ。一つ上の兄が小学校の野球団で溌剌とプレーをしている様を見て、兄に対する憧れとでも言おうか、兄に負けまいとする子供心からか、同じ小学校の野球団に入りプレーを始めた。年が一歳違いだとなおさらライバル心も生まれる。「兄貴に負けないように頑張るぞ。」小学校時代の中村少年の姿である。

 

中村選手と兄は小学校、中学校、高校と同じチームでプレーをした。どんなに厳しい練習であっても兄の頑張る姿を見て「負けない!」と自らを奮いたたせた。

高校は、兄も進学していた佐賀県で唯一スポーツクラスが設置されている佐賀東高校に進学、投手と内野手の両方で活躍した。

3年生の夏の甲子園佐賀県大会。バッター田中(現日ハム)のいる強豪佐賀商が相手。投手中村はノーアウトランナー2塁で自分が投じた球が相手バッターに打たれてしまい、7-1のコールド負けを喫した。自分の投球で3年の夏が終わった。打たれた後しばらくは「何も考えられなかった。」

 

大学は部員数が日本一多いことで有名な日本文理大学に進学。俊足ぶりは評価され1年生から内野手でベンチ入りし、大学3年時には50mで6秒を切る足の速さにまでなっていた。

思い出の試合は大学3年時九州地区大学野球連盟秋季大会。名桜大戦。延長11回まで

6-6でもつれ込んだ試合は11回裏日本文理大からサヨナラ打が出て7-6で勝利した。サヨナラ勝ちというものは、いつまでも本人の記憶に残るものだ。

 

鹿島硬式野球部では「切り込み隊長」として常にチームに良い流れを呼ぶことを心がけている。2016年の中村選手の活躍に期待したい。

 

IMG_2480 現在の中村選手

(記:後援会)


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<選手の軌跡 ~藤田 荘馬~>

2016/03/29

第22号  「強い気持ちで押して行く野球をする」

 

藤田 荘馬 (ふじた そうま)  投手

香川県出身  丸亀城西高校 - 日本体育大学

 

 

香川県綾川町出身の藤田選手、野球は幼い頃から大好きで、早く少年野球団に入りたかったのだが、小学校1年生の時に病気を患い1年近く野球が出来なかった。幸いにも病気は完治し小学校3年生で地元の少年野球団に入団することが出来た。野球をやりたくても出来なかった頃の思いをぶつけるように、野球が出来る嬉しさで弾けるように野球に打ち込んだ。ポジションは最初からピッチャー、小学校の間は4番でキャプテンを任されるまで活躍した。

藤田(小学校時代)

小学校時代の藤田選手

 

中学生の時は地元の硬式野球のクラブチームに所属しピッチャーとして練習に勤しんだ。一方で学校の部活動では陸上部に所属し、1500m走の選手として各競技会に出場。

スタミナ、強い足腰を作るのに大いに役立った。所属する硬式クラブチームではもちろんピチャー。自分でも納得のいかない程制球に苦しみ悩む時期もあったのだが、それでも自分に対して強気の気持ちを投げかけ、一生懸命、直球勝負でキャッチャーミットへ投げ込んだ。中学校時代の藤田選手は「強い気持ちを持って野球をする」ことの大切さを学んだという。

 

丸亀城西高校へ進学した藤田選手は1年生の秋からエースを託された。履正社高校(大阪府)との練習試合で当時相手チームには強打者山田哲人(現東京ヤクルトスワローズ)がいたが、1-1で互角の勝負に抑えたこともある。

藤田(高校時代)

高校時代の藤田選手(右側)

 

その後進学した日本体育大学での思い出の試合が大学3年時、2013年の全日本大学野球選手権大会。ベスト8まで進出し対戦相手は強豪東北福祉大学、勝てばベスト4進出がかかる大事な試合で藤田選手は大学に入って公式戦初先発を任された。本人の言葉を借りれば「プレッシャーは半端なものでなかった。試合前日に先発をを告げられてマウンドに立つまでのことはあまり覚えていない。」とのこと。しかし藤田選手は持ち前の強気な気持ちで登板、6イニングを1失点に抑え試合は6-1で勝利した。

 

鹿島硬式野球部に入部した今でも、気持ちの強さが持ち前だと言う。2016年度シーズンの藤田選手の活躍に期待したい。

 

(記:後援会)

 

 

 


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<選手の軌跡 ~島田 直人~>

2016/03/28

第21号  「気持ちを前に前に押して行く」

 

島田 直人 (しまだ なおと) 外野手

茨城県出身  帝京高校 - 日本体育大学

 

「カーン」と芯を捉えた力強い打球が何本も外野に飛んでいく。野球部のキャンプの特打ち練習、バッティングゲージの中に島田選手が入っていた。

地元茨城県霞ケ浦市出身の島田選手に幼少時代からの話を伺った。

島田選手は小学校3年生の時に地元の野球チームに入団。父親も大の野球好きで会社の野球チームに所属し、家に帰るとテレビの巨人戦は欠かさず観ていた。そんな家庭の中で自然と野球少年として島田選手は育った。

 

島田選手は中学校時代に部活で軟式野球部に所属し、また部活が終わると硬式野球も学ぶ事ができる地元の塾「IST(イスト)」で徹底的に練習した。本人の記憶では、1日に500~600回のティーバッティングをやっていたという。島田選手のスイングが速く力強いバッティングの基礎を築いた時代だ。

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中学時代の島田選手

 

 

中学を卒業後、東京の帝京高校に進学した。甲子園の常連校として名を馳せる帝京高校で大事にしたことは「文武両道」。厳しい練習を行う野球はもちろんのこと、学問でも結果を求められていた。つらくても気持ちを前に向けて頑張っていった。甲子園は3年生の時の春のセンバツに出場。ベスト8まで進出したが、対戦相手は興南高校(沖縄県)、島袋投手(現福岡ソフトバンク)を攻略できず0-5の完封負けを喫した。本人の記憶では「打てない球ではなかったが抑えられてしまった。」苦い思い出の試合だが、大観衆の中でのプレーは中々経験できないことであり、「独特の雰囲気があった。」

 

大学進学は野球をしながら体育全般のことを学べる日本体育大学に進学。教員免許も取得した。3年生の時2013年の全日本大学野球選手権ではベスト4まで進出したが、準決勝では山崎投手(現横浜DeNA)擁する亜細亜大学に3-6で敗れた。

 

鹿島硬式野球部に所属する現在は「自分は主軸を張れるよう、ここぞという時に1発を打ってチームに良い流れを導き、試合の勝利に繋げたい。」

2016年シーズンの島田選手の力強いバッティングがとても楽しみだ。

 

(記:後援会)

 


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<選手の軌跡~樋口 瑠偉~>

2016/03/25

第20号  「試合を決めたサヨナラの一打」

 

 

樋口 瑠偉 (ひぐち るい) 投手

長崎県出身  壱岐商業高校 - 日本文理大学

 

 

長崎県の壱岐市出身の樋口選手。九州と対馬の間にある島で生まれた樋口少年は小学校1年の時に野球を始めた。野球を始めるまではサッカーや、水泳をして外で遊びまわっていた。樋口瑠偉選手の「瑠偉」は元プロサッカー選手のラモス瑠偉に因んで付けられたとのこと。本人はサッカー遊びを結構楽しんでいたが、壱岐市はサッカーが盛んというわけでもなく、「スポーツと言えば野球」という中で、周りの友達が野球で頑張っているのを見て自然と野球の輪の中に入っていった。小学校の軟式野球のクラブに入部して、最初からピッチャーだった。

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小学校時代の樋口選手

 

樋口選手は地元の壱岐商業高校に進学。野球部で1年生からベンチ入りした。

今でも覚えている試合は2年生の時の夏の大会で初戦諫早東高校との対戦。中指を負傷しそのまま投げ続けたが、球も走らず失点を喫してしまう。流れは諫早東高校に行き負けを覚悟した。「先輩たちの夏が終わってしまう。申し訳ない。」ところが試合は雨天再試合と思わぬ運びとなった。翌日の試合ではライトで先発出場。9回裏2アウトランナー1塁でランナーが帰ればサヨナラの場面。打席が自分にまわってきた。「勝つためにはこのランナーを帰すしかない。ライト線一杯を狙うぞ。」集中力を高め放った一打が見事にライト線方向に飛びランナー生還、サヨナラヒットで勝利を収めた。試合を決めた一打、そして何より自分にとって忘れられない一打となった。

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高校時代の樋口選手

 

樋口選手は高校卒業後、スポーツトレーナーになって地元壱岐市で後進を育てたいと考えていたが、壱岐商業高校の遠征先での日本文理大学のスタッフの目にとまり日本文理大学に進学。そのまま野球を続けることになった。日本文理大学は部員数が280名と日本一を誇るマンモス所帯、ベンチ入り25人枠に入るのは簡単な事ではなかったが、2年生秋からベンチ入りを果たした。本人の自信に繋がる一方で、選手層が厚く代わりは直ぐに出てくる追われる立場。プレッシャーに打ち勝ち大学野球を続けた。

 

鹿島硬式野球部での自分の今の課題は「チームの勝利の為に、任されたところで確実に結果を出すこと。」2年目を迎える樋口選手の活躍を期待したい。

 

(記:後援会)

 


カテゴリ:樋口 瑠偉-選手の軌跡

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<選手の軌跡~阿部達世志~>

2016/03/22

第19号  「一球の怖さ、大切さ」

 

阿部 達世志 (あべ たつよし) 投手

 

宮城県出身  東北生活文化大学高校 - 青森大学

 

 

宮城県多賀城市出身の阿部選手は野球を始めるまでは全くといっていいほど野球に興味がなく、父親ががテレビで野球観戦をしていてもチャンネルを変えてほしいと思うほど。

阿部少年が小学校でやっていたスポーツは、水泳、ドッジボール。ドッジボールは競技として大会に出場する程しっかり習っていた。水泳での腕の振りや、大きなボールを体でしっかり投げるということが、後にピッチャーとして野球をする体の素地を作っていった。

そんな阿部少年が野球と触れ合ったのは、6年生の終わり頃。親友が野球をやっていて遊びに誘われた。親友とキャッチボールをしていて楽しくなり「野球もおもしろいなぁ」と思い中学校から本格的に始めることにした。

 

中学生になって地元の硬式シニアチームに入団。小学校からの経験者が殆どの中で、一からのスタートであったが、水泳とドッジボールで培った素地がここで活き、才能が花開く。中学1年生秋からピッチャーで、中学校3年生のチーム卒団試合時には球速139㎞を記録し、様子を見に来ていた高校のスタッフを驚かせた。

シニアチーム監督の薦めもあり、新設間もない東北生活文化大学高校に進学した。専用のグランドもまだ整備されておらず、他の部活と一緒に校庭で練習する日々であった。

 

記憶に残る試合は3年生の時の夏の甲子園宮城県予選2回戦、対戦相手は東北高校。試合は4-4で終盤までもつれ込んだが、阿部投手は制球が甘くなり打者にフォアボールを出してしまう。このランナーが盗塁、味方の送球の後逸も加わってホームまで帰してしまい4-5で敗戦。自分の投球がきっかけでランナーを出し思わぬ展開を呼ぶ。阿部投手は一球の怖さ、大切さを思い知らされたという。

img-322073903-0001高校時代の阿部投手

 

同じように一球の怖さを思った試合が、その後進学した青森大学4年生の時。秋季北東北リーグ戦。八戸大学を相手に延長12回まで1失点、試合はタイブレークで決着となった。自チームが守り側になった時に、投げた球が甘く入り満塁ホームランで敗戦。またもや自身の投げた一球で試合が決まってしまった。

 

記憶に残る試合が本人にとっては不本意な試合であろうが、取材時の語り口は熱かった。

「投手はマウンドに立てば、一人一人がその時のエース。負けられないし、点もやらない。社会人野球ではただ球が速ければいいのではない。バッターの思惑を外すテクニックや、制球の良さが当然求められる。2年目に入る今の自分の課題です。」かつて高校の監督に言われた言葉を大切にしている。

「エースとはどんな状況でも負けないピッチャーの事をエースと言う。」

2年目に入る阿部投手の活躍に期待する。

 

 

(記:後援会)

 

 

 


カテゴリ:選手の軌跡-阿部達世志

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<選手の軌跡~堀越 匠~>

2016/02/12

第18号  「子供の頃の猛練習が自分の基礎になっている」

 

 

堀越  匠 (ほりこし たくみ) 外野手

東京都出身  浦和学院高校 - 東洋大学

 

 

東京都目黒区出身の堀越選手は、小学校1年生の時に硬式野球のクラブチームに入部し野球を始めた。三人兄弟の末っ子で父親も野球好き。「当たり前」のように野球を始めた。友達と遊ぶよりはむしろひたすら野球漬けの日々。兄弟3人、父親とともに夕方6時から晩の9時まで練習に勤しんだ。ティーバッティング、素振り、ランニング、徹底して鍛えられた。この練習は中学校を卒業するまで続き、体力・メンタル共に今の堀越選手を支える基礎を築いたのである。

中学時代の堀越選手

 

 

 

甲子園に出ることを目標に、甲子園出場の常連校、浦和学院高校に進学した。

2006年第88回夏の甲子園に出場。1番バッターとしてリードオフマンの役割を担った。

 

浦和学院高校卒業後、東洋大学に進学した。自身の記憶に残る試合は、2010年の全日本大学野球選手権決勝。対戦相手は菅野投手(現読売巨人)擁する東海大学。東洋大学も投手藤岡(現千葉ロッテ)、鈴木大地(同)ら有力プレーヤーが揃い対決。試合は5-0で完勝し、日本一の栄冠を手に入れた。

二塁ベースでガッツポーズの堀越選手(大学選手権で)

 

 

 

その後鹿島硬式野球部に入部してからも活躍し、全日本代表にも選出された。全国からそうそうたるメンバーが集う中で共に練習し試合に出場し、本人は楽しくてしかたなっかたという。メンバーのレベルの高いプレーを見てその後の自分の参考にも出来た。

 

堀越選手の野球人生の中で本人に転機といえる時期がある。大学2年生の時だ。プレーで結果が伴わず堀越選手は初めてベンチ入りを外された。スタンドから応援という本人にとっては挫折に近いものであった。3年生から再びベンチ入りしたものの代打要員。

4年生でレギュラーに戻ることはできたが苦しい時期であったという。それでも挫折から這い上がることができたのは子供の頃の猛特訓で鍛えたメンタルの強さが支えになったのかもしれない。

 

鹿島硬式野球部でプレーする今は「アグレッシブ」であることを常に心がけている。今の自分に課していることは「何が何でも離脱しないこと。1年間を通じて確実にプレーが出来ること。」2016年の「アグレッシブ」な堀越選手のプレーが楽しみだ。

 

(記:後援会)

 

 


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<選手の軌跡~嶋田 泰祐~>

2016/02/10

 

第17号  「自分を支えるもの - 負けず嫌いの性格」

 

 

嶋田 泰祐 (しまだ たいすけ) 投手

福井県出身  羽水高校 - 日本体育大学

 

 

福井県越前市出身の嶋田選手の野球との出会いは小学校1年生の時。隣近所で一緒に遊んでいた1歳上の友達が野球を始め、「じゃあ俺も!」と、少年野球団に入団。

野球を始めたといってもまだ小学校1年生。最初からボールを握るでもなく、先輩選手が練習に励むのを横目にグランドの砂いじりやグランドにいるバッタなどを追いかけて遊んでいたそうだ。

嶋田選手がピッチャーとして道を歩み始めたのは小学校5年生の時。それまでは外野を守っていたが、左利きであることはチームにとって貴重だったのだろう。左腕嶋田投手の誕生である。少年野球チームの主力として着実に成長し小学校6年生の時にはエースで4番、キャプテンを任されるまでになっていった。

 小学校時代の嶋田投手

 

 

中学校に進んだ嶋田投手は軟式野球部に所属。ここで嶋田投手曰く「カリスマ」川村監督との出会いが訪れる。2つ上兄も所属していた南越中学校野球部を県大会優勝、さらにはナゴヤドームで行われる中部日本地区選抜中学校軟式野球大会で優勝に導いた名将。

「選手が良いプレーができるよう『洗脳』するのが上手かった人だと思う。(嶋田投手)」

 

 

嶋田選手を始め主軸の選手を中心に選手皆が監督に感化され中学時代の野球生活を送ったのである。ところが、川村監督が南越中学校から福井県立羽水高校へ異動されることになった。今まで監督についてきた選手達特に主軸選手は「それなら俺たちも羽水高校に入って、監督の下で野球をやろう!」。嶋田選手は福井県内でも有数の進学校である羽水高校へ合格する為に野球部の練習後、夜遅く迄塾に通い猛勉強。見事合格した。

 

 

高校で野球部入部後、川村監督の指導の下1年生の秋からエースを託され投手陣を引っ張った。2年生の春の大会では1試合18奪三振という県記録を打ち立てた。

 中央で満面の笑みの嶋田投手(高校時代)

 

嶋田 選手に話を聞くと「自分は究極の負けず嫌い。大学進学後も高校からのエリート選手は多くいた。自分は野球では無名の羽水高校から入部。雑草魂というんですかね。とにかく負けたくなかった。今の自分を支えているのはこの性格だと思います。」

鹿島硬式野球部での目標は、先発完投。都市対抗、日本選手権ときっちりと自分の役割を果たしたいとのこと。野球部投手陣を支える嶋田投手の2016年シーズンの活躍に期待したい。

 

(記:後援会)

 

 


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<選手の軌跡~藤原 利樹~>

2016/02/08

 

第16号  「投手であり続けることで今の自分がいる」
藤原 利樹 (ふじわら としき) 投手

秋田県出身  大曲工業高校 - 常盤大学

 

 

豪雪地帯秋田県大仙市出身の藤原投手に野球との出会いからの話を伺った。

藤原投手が野球ボールを握り、投げ始めたのは小学校1年生の頃。父親とのキャッチボールを始めたのがきっかけである。近くの少年野球チームが小学校4年生からしか入れなかったこともあり、それまではひたすら自宅の庭や田んぼで野球をして過ごし、父親だけでなく母親、弟祖父までがキャッチャーをつとめた。秋田県の田舎で文字通りのびのびと幼少時代を過ごした。小学校4年生の時にクラブチームに所属。最初からピッチャーを任された。幼少時代に培われた基礎が生かされたのだろう。

 

中学校に進んだ藤原投手は軟式野球部に所属し、ピッチャーを担った。野球のみでなく、その運動センスは中学校の陸上競技でも活かされ、ハードル競技で県大会の代表まで選出されるほどであった。藤原投手といえばその長身からのピッチングが持ち味だが、中学校を卒業する時点で身長は184㎝まで伸びており一際目立つ存在だったであろう。

 

高校は地元の強豪校、大曲工業高校に進学。1年生の秋からベンチに入り、投手陣の一翼を担う。冬場は雪が積もったグラウンドの中、長靴を履いて雪に交じりながら、雪を踏みしめながらの厳しい練習に明け暮れたのである。決して恵まれた練習環境ではなかったが、そうした中でハングリー精神が養われていった。大曲工業高校は藤原投手が3年時に夏の秋田県大会でベスト8まで進んだものの、大館鳳鳴高校に0-2で完封負け。藤原投手は2番手投手でこの試合1イニングも登板できず、悔しさが残った。「このまま野球を終われない。」

高校時代の藤原投手

 

藤原投手は常盤大学に進学し、1年生秋からベンチ入り。忘れられない試合がある。1年生の秋季リーグ戦。平成国際大学相手に13回延長戦を独りで投げ抜いた。試合は12回まで0-0のまま進んでいたが、13回に味方が8得点、8-0の完封勝利で終わった。

大学時代の藤原投手

 

藤原投手に今までの野球人生を改めて振り返ってもらうと、「ピッチャーとして自分が投げ続けられたことが野球人生の中では大きい。ピッチャーでなければ野球はここまで出来ていなかったし、大きく育ててくれた家族に感謝している。」

今の鹿島硬式野球部での自身の課題は、ストレートで押して行く力強さをより高めること。Wドーム出場を目標に日々練習で投げ込む藤原投手の2016年シーズンの活躍に期待したい。

 

(記:後援会)

 

 

 

 

 


カテゴリ:藤原 利樹-選手の軌跡

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