選手の軌跡

<選手の軌跡~福盛 陽平~>

2016/02/05

第15号  「忘れられない都市対抗予選」

福盛 陽平 (ふくもり ようへい) 内野手

福岡県出身  九州学院高校 - 徳山大学
福岡県北九州市出身の福盛選手の野球との出会いは4歳頃。
駄菓子屋で売っているプラスチック製の野球ボールがいつも遊ぶ時のおもちゃだったそうだ。三人兄弟の末っ子で7つ上と5つ上の兄に交じり、父親も加わって4人が自宅で練習をしていた。マウンドからバッターBOXまでの距離が実際のグランドのそれと殆ど同じ距離だったそうで、福盛少年にとってスローイングの距離はとても長く感じられたものの幼少期に強い体を作るのに役に立った。

 

クラブチームに所属し野球が本格的になるのが小学校4年生の時。地元のスポーツ少年団に入団し最初からピッチャーを任された。幼いころからの親兄弟との練習の積み重ねが生きたのだろう。その後中学校でもずっとピッチャーで通した。ピッチャーで相手に投げ勝つのが楽しくてしかたなかった。

小学生時代の福盛選手

 

 

野球少年なら誰しもが憧れる甲子園を目指すべく高校は、実績・実力ともに揃った九州学院高校に進学。ピッチャーのつもりで入部したがいきなりサードを指名された。内野手福盛選手がここに生まれる。

甲子園出場経験のある並みいる先輩たちの中で鍛えられていった。惜しくも自身は甲子園出場にはおよばなかったが、一発勝負の高校野球を通じて福盛内野手は成長していった。

高校時代の福盛選手

 

 

福盛選手に記憶に残る試合を聞くと、鹿島硬式野球部入部3年目の2010年都市対抗北関東予選。対戦相手は富士重工業、富士重工業リードで9回まで続き、試合は決まったかに思えたが、9回裏に当時のキャプテン橋本の逆転満塁サヨナラホームランで奇跡の勝利をした。野球は最後まで分からないとはまさしくこのことだった。その年本大会に出場した硬式野球部は準決勝まで進み、10年振りに黄獅子旗を獲得した。

今の硬式野球部での課題は、守備と打撃の確率をあげて行くこと。チームとして何としてでもWドームに出場する。主将としての強い意志が感じられた。

2016年シーズンの福盛主将の活躍を期待したい。

 

(記:後援会)


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<選手の軌跡~渡部 和博~>

2016/02/05

第14号  「勝ち負けに関係なく甲子園を楽しめる - 甲子園での降雨ノーゲーム」

 

渡部 和博 (わたなべ かずひろ) 内野手

岡山県出身  倉敷工業高校 - 明治大学

 

 

渡部選手は白壁の町並みやマスカットの産地として有名な岡山県倉敷市の出身。

野球を始める前は、小学校で陸上競技の選手だった。倉敷市に陸上競技チームがあり、渡部少年はそこで100m走、リレー選手としてその俊足ぶりで活躍していた。

小さい頃から、両親が共働きで幼稚園等の送り迎えなどなく、登下校ではひたすら歩くことが多かったそうで、そうした日々の積み重ねも健脚の基礎を築いたのかもしれない。

 

野球との出会いは中学生になってから。地元の硬式野球のクラブチームの練習に見学に行った時に、同じ中学生がレベルの高いプレーをしていることに刺激を受け、中学生から入団。それまで野球をやっていたことなどなく小学生からの経験者の多い中で一からルールを覚えて行き、人の後を追っていく日々であった。そうした姿を見て父親から叱咤された。「人の後を追うのではなく、常に前にいてプレーしろ。」その一言で野球に対する姿勢が変わった。

セカンドを守り2番バッターとして活躍した。

 

高校への進学は、同じ硬式クラブチームでキャプテンをやっていた2年先輩に憧れて本人曰く「追っかけるように」岡山の古豪倉敷工業高校を選んだ。

渡部選手の野球人生の中で忘れられない試合は、2003年第85回夏の甲子園初戦での駒大苫小牧との対戦。4回裏までで8点を先取され厳しい展開であったが、折しも台風が通過する予報の中で行われた試合で、試合中に豪雨となり、降雨ノーゲームが決まった。渡部選手は、「勝ち負けに関係なくもう一回甲子園で試合ができるのは嬉しい。」との気持ちであった。翌日の再試合では逆に倉敷工業が5-2で勝利し次の対戦へコマを進めた。倉敷工業での厳しい練習を耐え抜いたことが報われたのである。

夏の甲子園でホームインする渡部選手

倉敷工業高校卒業後、渡部選手は明治大学に進学した。彼の記憶に残るのは大学4年時の2007年東京6大学春季リーグ戦。対戦相手は1年生の斎藤祐樹(現日ハム)擁する早稲田大学。共に6連勝であり勝てば優勝のかかった試合。2試合とも早稲田大学に敗れ惜しくも優勝を逃した。

大学時代の渡部選手

渡部選手が日頃から心がけていることは「常に早めの行動。ゆとりを持って事に臨めば周囲に迷惑もかからない。」今の硬式野球部での課題は勝負を決める一打を放つ事。

ここぞという時の勝負強さを発揮すべく日々練習に打ち込む渡部選手の活躍に期待したい。

(記:後援会)

 


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<選手の軌跡~藤本 雄也~>

2016/01/08

第13号  「左に藤本、右に新西 -都城商業2枚看板投手の夏の高校野球での活躍」

 

藤本 雄也 (ふじもと ゆうや) 外野手

宮崎県出身  都城商業高校 - 國學院大学

 

 

プロ野球や企業チームのキャンプ地として有名な宮崎県出身の藤本選手にこれまで歩んで来た野球人生について伺った。

子供の頃は川遊びが大好きで、魚釣りなどをして楽しんでいた。本格的に野球を始めたのは小学校3年生の時、野球が盛んに行われる風土の中「ごく自然に」野球を始めていたとのこと。ポジションは最初からピッチャー、「背番号1番」のユニフォームに憧れて投げ込む日々であった。

中学校でも地元のチームでピッチャーを担っていた藤本選手はその後、宮崎県立都城商業高校に進学し、1年生から野球部でベンチ入りし甲子園を目指すことになる。

 

2009年夏の高校野球で、都城商業高校は「左の藤本、右の新西(現光シーガルズ)」と言われた。共に140㎞を超える速球を投げる2枚看板を擁し甲子園出場をかけ大会に臨んだ。宮崎大会を順調に勝ち進み決勝戦の相手宮崎商業高校を破り、公立高校としては県内で28年振りに甲子園出場。

甲子園でも順調にコマを進め、3回戦で強豪智弁和歌山高校(和歌山県)を破り、ベスト8まで進出する快挙を成し遂げる。ベスト8では、エース堂林(現広島東洋カープ)擁する中京大中京高校(愛知県)に2-6で敗戦はしたが、念願の甲子園出場でベスト8進出という奮闘ぶりに地元宮崎は大いに沸いた。

 

藤本選手は國學院大学に進学。最初はピッチャーをやっていたが、「甲子園にも出場し、充分にピッチャーとして投げた。自分はバッティングも好きだし野手で活躍したい。」甲子園で3番打者を任されクリーンナップの一翼を担っていた藤本投手は野手に絞った。藤本選手の転機がここに訪れる。

東都大学リーグでは忘れられない試合は、平成24年春季リーグの1部・2部入替戦で日本大学(現鹿島硬式野球部、山井投手所属)との対戦。2部から1部への昇格がかかる我が國學院大学は、第1戦で藤本が2安打を打つも山井に完封負け。2戦目は藤本の3安打の活躍もあり勝利。最終第3戦は、再び山井投手が先発、「絶対に1部に上がるぞ!」との気持ちのもと、6-1で日本大学を破り見事1部昇格を決めた。

 

現在所属する鹿島硬式野球部での本人の目標は「年間を通じて打率3割を狙う事。体は小さくてもパワーヒッターとして頑張ります。」2016年の藤本選手の活躍を期待したい
                    藤本選手のバッティング

(記:後援会)

 

 


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<選手の軌跡~江藤 諒~>

2016/01/08

第12号  「忘れられない春のセンバツ初出場準優勝!」

 

江藤 諒 (えとう りょう) 外野手

東京都出身  聖望学園高校 - 八戸大学

 

 

東京都足立区出身の江藤選手。3人兄弟の末っ子で4歳上と2歳上の兄が野球をやっていた。兄達の背中を追っかける様に野球を始めた。小学校1年生、江藤選手の野球人生のスタートである。

兄達と共に地元の野球チームに所属し、汗と泥にまみれ野球に打ち込む江藤少年。左利きということもあって、ポジションはピッチャーとしての期待も高く、小学校、中学校とピッチャーで通した。中学校卒業後は埼玉県の聖望学園高校に進学する。聖望学園高校で最初はピッチャーで入部したが、足の速さを買われ外野手へコンバートとなった。

 

江藤選手の野球人生で語るべきは聖望学園高校の甲子園出場であろう。2008年第80回記念春のセンバツ。聖望学園高校は前年の秋季大会の実績を携え、センバツの初出場を果たす。初出場ということもあり、「なんとか初戦突破を!」がチームの目標だったそうだ。

 

しかし、初出場での怖いもの無しの強みだろうか2回戦で小松島高校(徳島県)を破り初戦突破。3回戦では履正社高校(大阪府)と次々に相手を勝ち倒し、8強入りをする。

準々決勝の対戦相手は京都府の強豪平安高校(現龍谷大学付属平安高校)。この試合、2回裏満塁となった場面で打順1番の江藤選手に打席が回ってきた。平安高校の左腕投手の速球をレフトへ打ち返し先制のタイムリーを放つ。これで打線に火がついた。この回で一挙4点を上げ攻撃に弾みがついた。

続く3回でも聖望学園高校は2点もぎ取った後、江藤選手は3塁打を放ち2点追加。試合序盤で8点をとり、その後も試合の流れを変えることなくエースの好投で8-0の勝利。準決勝進出を果たした。

 

一度ついた勢いは止まらない。準決勝相手の千葉経済付属高校(千葉県)を4-2で破り、初出場にして決勝まで勝ち上がる。決勝の対戦相手はエース東浜(現ソフトバンク)擁する沖縄尚学高校。夢にまで見た甲子園での優勝まであと一つであったが、沖縄尚学高校(沖縄県)の猛攻に歯が立たず0-9で敗れた。やはり優勝の壁は厚かったが、初出場での準優勝ということで聖望学園高校の健闘は称えられた。

 

現在所属する鹿島硬式野球部では、打率アップを課題に練習に明け暮れる。守備でも「外野に球が来てもランナーを必ずアウトにして見せる。」気さくに取材に応じて頂きながらも強い闘志が感じられた。

外野を守る江藤選手

(記:後援会)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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<選手の軌跡~高畠 祐平~>

2016/01/06

第11号  「諦めずに進んだ野球の道」

 

高畠 祐平 (たかばたけ ゆうへい) 外野手

高知県出身  未来高校 - 日本体育大学

 

 

四国高知出身の高畠選手は、徳島県との県境にほぼ位置する、漁師町高知県東洋町で生まれ育った。幼少時代は日の暮れるまで海で泳ぎ山を走るという、本当にのびのびと遊びまわっていた。野球は5歳上の兄がやっていた影響で、小学校1年生の頃には「いつのまにか」始めていたという。ポジションはショート。小学校、中学校のクラブでもずっとショートを任されていた。

 

その守備センスが目に止まったのだろう、隣県徳島の鳴門工業高校(現鳴門渦潮高校)の監督から声がかかり、鳴門工業高校に進学。入学前年の2005年夏の甲子園にベスト8迄進んだ強豪校で、1年生からベンチ入りしその将来が期待されていた。

 

しかしながら、高畠選手に思いもよらない衝撃が訪れる。自分の喉の奥のほうに腫瘍が見つかった。幸いにも手術で取れる大きさであり、周囲の支援もあって無事手術は成功したものの、この事で1年間野球生活から遠ざかることになった。高畠選手は鳴門工業を中退し、進路に迷った。そうした中で親戚が持って来てくれたのが専門学校関西メディカルスポーツ学院の資料。トレーナーとしての道を進むことを考え始めたところ、入学要件が緩和されて同校の野球選手科に入学出来る事が解った。「また野球をやれる」途中であきらめていた野球の道が再び開いたのである。

 

高校卒業の資格を得る為に、夜は通信制の未来高校のレポートを書き、昼は野球に打ち込む日々であった。関西メディカルスポーツ学院では1年間のブランクを克服しサードを担った。ここでの野球生活は1年半と短かったが、今でも高畠選手の人生の中での大きなウェイトを占める。

 

その後日本体育大学に進学、首都大学リーグでの忘れられない試合は9季連続で勝てなかった東海大学に勝った試合のこと。菅野(現巨人)や田中(現広島)を擁する東海大学にはどうしても勝てなかったのだが、その東海大学から勝ち点を奪う事ができた試合は今も忘れられないとのこと。

 

現在の高畠選手の課題は「チャンスで打てるバッターであること」。Wドーム出場を目標に練習に打ち込む高畠選手の2016年シーズンの活躍に期待したい。

豪快なバッティングの高畠選手

 

(記:後援会)

 

 

 

 

 

 

<選手の軌跡~木村 圭太~>

2016/01/06

第10号  「温暖な瀬戸内で育った野球少年」

 

木村 圭太 (きむら けいた) 内野手

広島県出身  山陽学園高校 - 立正大学

 

木村選手は温暖な気候で知られる瀬戸内の広島県で育った。3人兄弟の末っ子で、6歳と4歳上の兄二人も野球をやっており、感化されて小学校1年生より野球を始めた。

のぼのびと野球に打ち込む日々。父親も野球に熱心で、試合の後の家路に着く車の中ではその日のプレーの反省会を行っていたそうだ。

 

中学校では土日に地元の硬式野球チームに所属、平日の部活動は陸上部に所属した。本人曰く、「足腰を鍛える為」と。200m走と、走り幅跳びが主な種目であった。

 

木村少年の野球人生の転機は、山陽学園高校に進んだことである。中学校時代に所属していたクラブチームは全日本中学野球選手権ジャイアンツカップで3位になり、本人も優秀選手賞を受賞。山陽学園高校の監督から熱心に誘われ入学した。

山陽学園高校は県内でも屈指の強豪で知られ、2009年の夏の甲子園広島大会ではベスト4に進出、準決勝の対戦相手は如水館高校、勝てば決勝戦進出がかかる試合に2-3でサヨナラ負けを喫し、無念にも甲子園出場の夢は潰えた。

 

その後進学した立正大学時代、本人が忘れられない苦い思い出がある。

大学3年生の時、東都大学リーグ東京農大戦。リーグ戦では順調に勝ち星を増やし、あと2勝すれば優勝のかかった試合。「その試合は1点差で進んでいました。自分はサードを守っており、1死1塁になった時、次の打者がサードゴロのゲッツーコースだったのですが、ボールを弾いてしまいランナー1、2塁。その次の打者にホームランを打たれてしまいその試合は負けました。」自分のエラーで試合の流れが変わってしまい、その時の悔しさは今も忘れない。

 

自分の進路に迷いながらも、教員免許取得を目指して勉強していたが、やはり野球一本で生きたいと考えを強くし、現鹿島硬式野球部に入った。自分が入部してからのドーム出場は無いので、なんとしても2016年は出場したい。

打率・出塁率アップを課題に日々練習に打ち込む木村選手の今後を強く期待したい。

 

木村選手のバッティング

(記:後援会)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<選手の軌跡~能間 隆彰~>

2016/01/06

第9号  「悔しさをバネに、より高いレベルを目指す」

 

能間 隆彰 (のうま たかあき) 投手

神奈川県出身  桐蔭学園高校 - 東洋大学

 

能間選手に子供の頃からの話を伺った。

野球を始めたのは小学校1年生の時、野球をやっていた2年先輩に誘われてクラブチームに見学に行き、本人からすれば「なんとなく」入ったのがきっかけとのこと。

クラブチームに入部して最初3年間は球拾いや外野守備、ピッチャーに縁はなかった。

小学校4年生の時に、左利きである事を買われマウンドに立つことになった。

中学校も部活では野球部に所属し、左腕投手として活躍した。

 

高校進学時には、数々の高校から声がかかっていた能間投手。中学の1年先輩が進学していた桐蔭学園高校に進んだ。進学校でもあり将来の選択肢を増やしておきたい考えからだった。能間投手に伺うと、高校時代本人的には納得したピッチングの試合が少ないという。

特に2009年の夏の甲子園神奈川大会決勝戦。対戦相手は横浜隼人高校。序盤に4点を先制するも、自身のピッチングで4失点を喫し追いつかれ降板。試合は再び勝ち越したものの、再度追いつかれ、延長11回裏に5-6でサヨナラ負け。桐蔭学園が27年目にして決勝戦で初めて土がつき、甲子園を逃したのである。能間投手は悔しさで一杯であった。

 

その後進学した東洋大学でも悔しさで忘れられない試合が、2012年の東都大学秋季リーグでの1部2部入れ替え戦。勝てば1部昇格、負けると2部残留となる試合での対戦相手は専修大学。0勝1敗で迎えた負けられない第2戦。先発の好投により1-0リードで持ちこたえていた試合だったが、8回の表に1死1塁3塁のピンチで能間投手の登板。犠飛と盗塁、ヒットで逆転され1-2で敗戦。能間投手には自責点はなかったものの、1部昇格を逃した悔しさの残る試合であった。

 

自分の中で、「これだ!」と言える納得のいくピッチングがこれまでなかなかない。それだけ妥協せず、常に高みを目指し日々練習に打ち込んでいるのであろう。将来は、できればより高いレベルの舞台で野球をすることができればと考えている。

2016年の能間投手のピッチングに期待したい。

 

豪快なピッチングの能間投手

 

(記:後援会)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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<選手の軌跡~山井 佑太~>

2015/12/21

第8号  「高校時代の野球部監督との対話」

 

山井 佑太 (やまい ゆうた) 投手

栃木県出身  宇都宮南高校 - 日本大学

 

 

山井投手は小学校2年生の時に野球を始めた。

2歳年上の兄が野球をやっていたこともあり、文字通り背中を追いかけるように野球を始めたのであろう。小学校・中学校と兄弟で野球に懸命に取組んだ。年が近いせいか兄弟というよりも、むしろ仲のよい友達感覚で接しあったそうだ。お互いに切磋琢磨して野球に打ち込む少年時代であった。

 

宇都宮南高校時代のエピソード

普段の厳しい練習に加えて、年2回行われる名物練習があった。100m×100本ダッシュを行う日と、3000本スイングを行う日があった。これに堪える為にも徹底的に体を鍛えていった。全て甲子園出場を目指す為である。猛練習の甲斐あって、地方大会を勝ち抜き甲子園は春のセンバツに出場した。夢の舞台である甲子園に出場でき、とにかく嬉しかった。

高校時代力投する山井投手

 

高校時代は、当時の監督と良く対話した。対話の中からいろいろと得る事ができた。監督からは「常に考えながら投球すること。ひきずらないこと。」を言われたそうだ。考え過ぎるきらいもある彼に対して、厳しくも温かく指導を頂いた事に今も感謝の気持ちを忘れていない。

 

高校時代の監督の影響を受けたのか、自分は将来の夢として、後進の指導にあたることができればと考えている。野球で受けた恩返しを、指導者としての道を進むことでお返しをすることができればと語る山井投手であった。

日本大学時代の山井投手

 

(記:後援会)

 

 

 

 


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<選手の軌跡~中嶋 辰也~>

2015/12/16

第7号  「悲願の大学初優勝への貢献」

 

中嶋 辰也 (なかじま たつや) 内野手

千葉県出身   銚子商業高校 → 立正大学

 

 

中嶋選手は千葉県の酒々井の出身。小学校2年生から、友達に誘われて軟式野球を始めた。少年チームでは内野手を任され、野球漬けの日々を送り、グラブさばき、ファーストへのスローイング等練習の成果が実り確実に野球の腕が上達していった。

少年時代の中嶋選手

 

高校は、銚子商業高校へ進学。2007年高校3年生の時、甲子園出場を賭けてQVCマリンスタジアムでの決勝戦に臨む。対戦相手は強豪市立船橋高校。試合展開は、市立船橋高校に先制されたが、同点に追いつき逆転。「甲子園に行けるぞ!」ところが又追いつかれ逆転され試合終了。結果は3-5で敗戦。甲子園出場を逃し、悔し涙をのんだ。

 

2009年の第40回東都大学野球記念大会。中嶋選手が立正大学2年生の時。明治神宮で行われた東都リーグ1部の初優勝がかかった試合で決勝戦の相手は青山学院大学。中嶋選手が先制ツーランを放ち攻撃の口火を切った。立正大学野球部は創部61年目にして悲願の初優勝を果たした。ベストナインにも選ばれ、中嶋選手は立正大学初優勝の立役者となった。

立正大学時代の中嶋選手

 

鹿島硬式野球部でプレーする中嶋選手の今の武器はインコースに入ってきた球のさばき。本人によれば、変化球・ストレート共にポイントがあり、そこに来ることを想定して打ち返すのだという。

硬式野球部での今の目標・チームにかける思いを伺った。

それは、ここ一番での試合で結果を出して信頼される強い選手を目指すこと、打線の繋ぎ役としてチームの為に己の役割・立場で頑張って行きたいとのこと。

中嶋選手の今後の活躍に期待したい。

 

(記:後援会)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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<選手の軌跡~石川 清太~>

2015/12/16

第6号  「沖縄へ深紅の優勝旗を!」

 

石川 清太 (いしかわ しょうた) 投手

埼玉県出身   興南高校 - 関東学院大学

 

 

石川選手は幼い頃父親とキャッチボールやバッティングのまねごとをして、気が付いたら野球を始めていたという。

小学校3年生の時に地元のチームに所属して本格的に野球の道に進むことになる。友人の父親がコーチをしており、誘われて入部する事になった。初めての試合でいきなりマウンドに立ち、三者連続三振を奪う。石川少年は以降ピッチャーを任された。幼い頃の父親との練習の日々で既に野球選手・ピッチャーとしての素養が備わっていたのだ。

 

中学生時代、石川選手は地元チームで野球をしながら学校の部活でバドミントン部に所属した。対戦相手が打ってくるシャトルのスピードは、硬式ボールのそれには比較にならない程速かった。速さに反応し、打ち返す為の動体視力が養われ、本業の野球のバッティング上達にとても役に立ったという。

中学生時代の石川選手

 

石川選手の野球人生の転機となったのは、地元埼玉を離れ、父親の郷里、祖父母の住む沖縄に単身で移り、興南高校に進学したことであろう。

1年生からベンチ入りし、2番手ながらもピッチャーを任された。忘れられない試合は、2007年の夏の甲子園沖縄大会決勝での対浦添商業戦。13回まで進んだ決勝戦は荒天の為再試合となった。再試合の先発は石川投手に託され、「負けるわけにはいかない。ここで負けたら先輩3年生の夏が終わる。」石川投手は、7イニングを無失点で投げ抜き、2-0で勝利、24年振りの甲子園出場を果たした。1年生ながらプレッシャーを振り切り、相手打線を抑えたのである。2009年、3年生春の選抜にも出場、自身の代で甲子園優勝こそ逃したものの強豪として名をはせた。翌年2010年に、1年後輩の島袋(現ソフトバンク)を擁した興南高校は夏の甲子園で初優勝、深紅の大優勝旗が初めて沖縄に渡った。

甲子園での石川選手

 

その後関東学院大を経て入部した現硬式野球部では、当初故障に悩まされながらもそれを克服してきた。制球で苦しんだ今シーズンを反省し、徹底的に走り込んで下半身を安定させ、投げ込んでいる。石川投手の2016年シーズンの活躍を期待したい。

 

(記:後援会)

 

 

 

 

 

 

 


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