選手の軌跡

<選手の軌跡~鮫島 哲新~>

2015/12/07

第5号  「甲子園での『鹿工旋風』を支えた捕手」

 

鮫島 哲新  (さめしま てっしん)  捕手

鹿児島県出身  鹿児島工高 - 中央大

 

 

桜島の見える鹿児島市で育った鮫島捕手。小学校の運動会の徒競争で常に1・2位を争うライバルがいた。そのライバルが野球を始めた。「あいつには負けたくない!」小学校2年鮫島少年が野球を始めたきっかけである。

 

野球の練習場所は自宅近所のグランドはもちろんのこと、レンゲが広がる畑でも文字通り草野球の日々。のびのびと野球に打ち込む牧歌的な風景が浮かんでくる。

小学校と中学校では、キャッチャーとピッチャー両方を担った。特に中学校では軟式野球部員が12人と少なく、一つのポジションだけではチームにも余裕がないので両方することになったこれが強肩捕手鮫島選手の基礎を作った。

中学校時代の鮫島選手

 

高校への進学には、特待生としての声もかかる程の選手になっていた鮫島選手。しかし彼には強い思いがあった。「特待生が集まる私立高校よりも自分は公立高校で野球に打ち込み、甲子園に出場する。彼らには負けたくない。」彼は県立鹿児島工業高校に進む道を選んだ。

野球部専用のグランドはなく、他のクラブと練習場所を分けあう程の狭さ。シート打撃では、レフトとセンター方向に他の部がいたので打ち込めず、ライト方向を狙うしかなかったそうだ。実はこの練習が、広角に球を放つことが出来るバッティングの礎を築いた。

 

2006年夏に鹿児島工高は、県内の並みいる強豪を抑え公立高校としては実に56年振りとなる甲子園出場を果たす。鮫島捕手は4番主将として鹿工を率い、初出場ながらも勢いに乗り、ベスト8、ベスト4と勝ち進み、「鹿工旋風」とまで言わしめた。

主将鮫島は、準々決勝、福知山成美戦(京都)で延長10回表にバックスクリーンへ大会56号のソロホームランを放ち勝利。準決勝へ進んだ。対戦相手は、斎藤祐樹(現日本ハム)率いる早稲田実業。準決勝で敗れたものの、満員観客の甲子園球場でのプレーをした充実感、達成感で一杯であった。

 

福知山成美戦でホームランを放つ

 

硬式野球部で現在も捕手を務める鮫島選手。一発勝負の社会人野球で「勝てるキャッチャー」として、確実に信頼を積み重ねて行きたいと言う。鮫島選手の活躍に期待したい。

 

(記:後援会)

 

 

 

 

 

<選手の軌跡~真島 健~>

2015/12/07

第4号  「意地でもマウンドを守り抜く!」

 

真島 健  (まじま けん)  投手

埼玉県出身   浦和学院高校 - 東京国際大

 

真島選手に少年時代からのお話を伺った。

彼が野球を始めたのは小学校3年生から。父親が転勤で、仙台-豊橋-川越と幼い頃は各地を転々と。小学校2年生の時に現在の川越市に移り住み、近所の小学校の同級生に誘われて野球チームに入った。

小学校・中学校と野球が楽しくて仕方がない時代だったという。中学生の時は学校で軟式、地元のジュニアチームでは硬式と硬軟両方での野球漬けの日々。素振りでは、数多くのプロのピッチャーの球を打ち返すことをイメージしながらバットを振っていた。子供のころからのイメージトレーニングは、その後進学した浦和学院高校での練習に非常に役に立ったとのこと。

 

浦和学院高校から進学した東京国際大学時代のエピソード。

「自分は、大学時代3番手のピッチャーでした。ある試合での思い出なのですが、自分が登板していた試合に8回で2-1の1点差、しかもランナー2、3塁と背負ってしまった時に監督がボールを持ってマウンドに寄って交代を告げに来たのですが、意地でも替わるつもりはなかったので『絶対に替わりません!』と監督に言いより、結局そのまま監督がベンチへ帰っていった事があります。結果その試合は自分の完投勝利に終わりました。もし降板していたら今の自分は無かったかも知れません。」その時の監督は、かつて広島カープを日本一に導き、赤ヘル黄金時代を築いた古葉氏。その古葉氏も強い気持ちを認めてくれたのだろう。自らの意地とプライドで守り抜いた試合だった。

 

野球が好きで仕方がない。妥協もしない。1年でも長く投げ続くたいとの思いは強い。

今野球が出来ることに幸せを感じつつ、野球部の投手陣を支える真島投手の今後に強く期待したい。

現在の真島投手

 

 

 

(記:後援会)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


カテゴリ:真島 健-選手の軌跡

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<選手の軌跡~田島 一憲~>

2015/09/25

第3号  「サッカー少年が野球選手へ」

 

田島 一憲(たじま かずのり) 捕手

埼玉県出身   聖望学園高校 - 明治大学出身

 

野球選手に、そのスポーツ歴を聞くと、野球からスタートしていないことも多い。

田島選手もその一人。子供のころはプロサッカー選手に憧れて、サッカーに明け暮れていたそうだ。

とにかく体を動かすことが好き。かくれんぼや、かけっことかして、小学校の夏休みは昼間殆ど家にいなかった。

田島選手の地元は蔵造りの町並みで有名な小江戸川越。蔵造りの数々が遊び場とは思えないが、自宅の近くを遊びまわっていたのだろう。のどかな街で元気よく駆け回っていた田島少年。

田島少年が野球を目指すきっかけは、地元の野球チームに所属されていた父親の試合を観た時。「父親が、ショートを守っておりファインプレーを見た。「父さん、すごい!」野球を始めた転機であったと、今は思う。」田島一憲、小学校2年生、野球選手への道のりの始まりである。

 

小学生のころの田島選手

 

小学校では地元の軟式チームに所属し、中学校から硬式野球チームでプレー。ただ全くの野球漬けではなく、中学校の部活はバレーボール部。サッカー、野球、バレーボール。スポーツ万能のジュニア時代だ。

 

中学生時代の田島選手

 

高校時代に、聖望学園高校のキャッチャーとして甲子園に出場。この甲子園で田島選手の「この一球」がある。「香川西高との対戦。ランナー1・2塁でまわってきた初打席。サインがエンドランでした。インコースの難しい球でしたが、上手くさばいてレフトへ運びました。甲子園での初打席、初ホームランは今でも忘れられない一球です。」

鹿島硬式野球部の今の田島選手は、長所のスローイング(遠投118m)を活かし強肩でプレーする。課題は「強い打球を低く打つこと。打率アップにも繋がります。」

今後の田島選手に期待したい。

 

(記:後援会)


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<選手の軌跡~片葺 翔太~>

2015/08/10

第2号  【自分の野球の原点  -親父の存在-】

 

片葺 翔太(かたぶき しょうた) 捕手

兵庫県尼崎市出身  北陽高校 - 八戸大学出身

 

兵庫県尼崎市育ちの片葺選手。子供の頃の片葺は文字通り「悪ガキ」。

小学校の友達と連れだっては近所を駆け回り、いたずらもかなり度が過ぎていたようだ。

 

そんな彼が野球を始めたのは、親父さんからの「強い勧め」で入った尼崎ボーイズリーグから。

親父さんは、中学校までの野球経験しかないものの、相当な野球好きで息子をプロ野球選手にしたかったそうだ。

 

片葺少年は運動はサッカー以外は殆どこなした。そんな息子の運動センス、丈夫な体をさらに伸ばすために野球を始めさせたのだ。

 

片葺少年に親父から課せられた練習の中でとにかくきつかったメニューが「自宅マンションの階段のダッシュ。」12階マンションの11階に自宅があり、エレベーター使用を禁止。地上と11階自宅の往復を毎日すべてダッシュでやらされた。「かなわんな!」それくらいきつい練習だった。

 

親父さんに対する反発心はあったものの、逆に厳しい練習をこなすエネルギーに変えていった。反発する心は親父さんに対する熱い思いにいつしか変わり、大学で野球をやる頃には「親父の為にも野球をやる」という想いに変わっていった。

大学時代の同僚と(左端が片葺選手)

 

野球選手として着実に鍛えられていき、生来持っていた運動センスに磨きがかかる。特に肩は本人の武器になった。遠投は125mを記録、100mが基準というから相当な強肩だ。ポジションが捕手というのも頷ける。

 

毎年正月に実家に帰省しては親父さんと酒を酌み交わす。話題は自然と野球になるが、親父さんの野球に対する考えに今も納得する事があるという。

片葺選手にとり親父さんの存在は彼の野球の原点なのだ。

 

(記:後援会)

 

次回 第3号は

矢治 理法(やじ みちのり) 投手です。

ご期待下さい。

 

 

 


カテゴリ:片葺 翔太-選手の軌跡

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<選手の軌跡~中倉 祐人~>

2015/08/03

今回より、硬式野球部後援会ホームページに、「選手の軌跡」と題して1回/週をペースに選手が歩んできた道や、野球人生での転機となった事、これからの目指すこと、夢など、選手一人ひとりにスポットを当て、KASHIMA BLUE WINGSファンの皆様に選手をより身近に感じて頂けるよう、選手それぞれの軌跡を紹介します。

 

第1号  【南国で育ったソフトボール少年が野球選手へ】

 

中倉 祐人(なかくら ひろと) 外野手

鹿児島県出身  PL学園 - 東洋大学出身

 

硬式野球部でクリーンアップの一角を担う中倉外野手の野球選手生活は、郷里鹿児島県大崎で小学校からのソフトボールに始まる。

親の仕事が転勤族でもあり、子供の頃は九州地区を転々とした。そのため友達がなかなかできず、父親が転勤で大崎に居を構えた時に親の薦めもあって、当時ではソフトボールチームの強豪が多かった大崎地区のソフトボール部に入部した。

負けず嫌いの性格もあったのか、泣きながらも練習に明け暮れた少年時代である。強豪がひしめき、自分よりも一回りも大きい小学生から放たれる速球をとにかく打ち返した。チームではクリーンアップを任された。直球にめっぽう強くなったのはソフトボールに打ち込んだ子供の頃の影響もあるのかもしれない。

ソフトボールに打ち込んでいた小学校時代

 

そんな中倉も中学生になってからは、ソフトボールを白球に握りかえ本格的に野球の道に進む。高校はかの野球の名門PL学園に進学。

PL学園時代には、大阪地方予選決勝で大阪桐蔭高校を延長15回で引分け再試合の末、翌日に大差で打ち破り甲子園に出場。本人曰く「ほんまやりきったな」という感じ。

甲子園出場を決め、優勝メダルを胸に

 

中倉の野球人生の中で忘れられない試合がある。PL学園から進学した東洋大学で大学日本選手権での近畿大学戦。9回表東洋大0-2近畿大。2死一塁で回って来た自分の打席。

3ボール2ストライクまでカウントを追い込まれたあと、自らのホームランで追いついた。試合は延長15回までもつれこみ、東洋大が5点をもぎ取り勝利。最後まであきらめず粘りに粘った上での勝利だった。まさに試合の流れを変えた一球だ。

大学選手権でのダイナミックな打撃フォーム

 

新日鐵住金鹿島で現在はライトで4番を打つ。なかなか結果につながらない自分に歯がゆさを感じながら、引っ張るだけでなく広角に打つことを課題に練習に明け暮れる。

自分が入部してからWドームへの出場はない。スラッガーとして課題を克服し、チームの主軸打者として野球部をこれからも引っ張っていく。穏やか表情の中にも、少年時代からの負けず嫌いの闘志が感じられた。

(記:後援会)

 

 

次号は

【自分の野球の原点 -親父の存在-】

片葺 翔太(かたぶき しょうた)選手です。 ご期待下さい。

 


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