鹿島硬式野球部が3年振り16回目の都市対抗野球本大会出場を決めた。
今回、今までの野球部の歴史についてOBの皆さんに当時の様子などを伺った。
第1回目は、硬式野球部創部当時の思い出を、創部当時のメンバーである永峰幸俊さんに振り返って頂きました。
【第Ⅰ部】 歴史をつくろう「泥臭く、粘り強い野球」の原点 (前OB会長 永峰幸俊)
1974年、当時の赤羽製鉄所長が茨城県庁に知事を訪ねた時、偶然都市対抗本大会の出場報告で知事室に表敬訪問に来ていた日立製作所野球部を見て、「鹿島にも野球部を創ろう」と思い、本社や関係先を説得して鹿島野球部を設立。
1974年(昭和49年)9月に設立が決まり、翌年1月にチーム設立という非常に短期間での準備であった。
当時の和歌山野球団からの移籍者、OB、鹿島製鐵所軟式野球部の一部の選手、入部テストを合格した地元茨城県のクラブチームの選手等々とメンバー集めに苦労しながらチームのスタートとなった。
専用グランドもなく、神栖町(現神栖市)の神之池グランドで練習、トラックでバッティングゲージを運ぶなど大変苦労をしたが全員新しいチームで一つになり歴史を創ろうという思いのもと頑張った時代であった。
1975年(昭和50年)4月、念願の専用グランドが完成し、和歌山野球団、茨城県の強豪(のちの宿敵となるチーム)日立製作所を招きグランド開きの招待試合を行い、いよいよ社会人野球としてのスタートをきった。
午前中は職場で仕事、午後は練習という中で両立を目指し、仕事も野球にも一生懸命取り組んでいた。
その思いが叶ったのは創部2年目の日本選手権大会出場である。関東予選で強豪熊谷組、東芝を破り全国大会に初出場、予想もしない結果であったが、チーム一丸となって戦った結果でもあった。
創部当時は専用の宿舎もなく、独身者は鹿島町(現鹿嶋市)の「ホテルがんけ」で共同生活を送っていた。その後鹿島町鉢形(現鹿嶋市鉢形)にサッカー団(現アントラーズの前身)と一緒の宿舎「雄飛寮(ゆうひりょう)」が完成し入寮した。
サッカー団も野球部と同時期に製鋼所から鹿島に移り、まだ日本リーグ2部であったがサッカー団と野球部が切磋琢磨し上を目指した。
当時は和歌山野球団を追い越せという反骨精神のもと、大声を出し、土にまみれ、一生懸命球を追い、泥臭く取り組んでいた。今の「泥臭く、粘り強い野球」の原点である。
最後に現役の選手へ、その原点である「泥臭く、粘り強い野球」を発揮し一戦一戦大事に戦い念願である「黒獅子旗」を獲得して下さい。
発足時のメンバー(後列左から3人目が永峰幸俊さん)