第3回目は、2000年都市対抗野球大会で初めて「黄獅子旗」を獲得した時の監督、川島浩さんに当時の都市対抗予選並びに本大会の内容を振り返って頂きました。
【第Ⅲ部】 初の「黄獅子旗」獲得 (当時の監督(現野球部顧問) 川島浩)
1999年末に和歌山野球団が50年の歴史に幕を降ろし、6名の選手が鹿島に移籍してきた。鹿島野球部とこの6名の移籍選手が一体となって戦ったことを覚えている。
都市対抗県予選で日立製作所に11-3で勝利し優勝。茨城県第一位で北関東予選に進んだ。
北関東予選では順調に代表決定戦まで進み、富士重工業と対戦、前半リードするもダメ押し点が取れず、7回に逆転され6-7で逃げ切られ2位決定戦に回った。
2位決定戦(勝てば関東代表決定戦へ)は日立製作所との戦いとなり、この試合も前半リードするものの接戦の戦いとなったが、からくも5-4で逃げ切り、関東代表決定戦に進出し東京ドーム出場への望みを繋いだ。
関東代表決定戦まで10日間という間があり、調整に苦労した記憶が残っている。
関東代表決定戦は、南関東の強豪日本通運。
試合当日球場に入った時、相手チームの予想されたエース級の先発投手の姿が見えず、相手の先発投手を確信でき、気持ちに余裕ができたことを今でも鮮明に覚えている。
試合は初回から攻撃の手を緩めることなく攻め続け、投げては原田・平良の継投で11-4の大差で勝ち、2年振りの都市対抗本大会出場を決めた。勝利が決まった瞬間は、前年出場に出場出来なかったこともあり、喜びよりもホッとした気持ちであった。
この予選を振り返ると、4月の日立市長杯で初優勝して選手が自信を持って戦ってくれた。
本大会の1回戦は同業他社の川鉄水島戦と決まり、周りからは「絶対に負けるなよ!」とプレッシャーをかけられ、これは負けたら大変だと思った。
1回戦対川鉄水島
前半から点の取り合いとなったが、終盤に一鍬田、青木の本塁打攻勢で突き放し、原田・平良の継投で10-6で勝利した。
勝った瞬間、応援頂いた方々からの激に報いることができ、ホッと胸をなでおろした試合であった。
2回戦対日石三菱
本大会の優勝候補の一角である相手。やっつけるには絶好の相手、勝てそうな気がしていた。試合は初回から松本の本塁打などで攻め、投げては原田が183球の熱投で完投。9-2と優勝候補相手に完勝した試合であった。
準々決勝対三菱自動車岡崎
1点を争う試合となり、投手陣の好投、しっかりとした守備で守り切り、2-1で勝利した。ただ誤算は準決勝で先発予定の原田を投入せざるを得なかったことである。
準決勝対三菱自動車川崎
日石三菱と同様に優勝候補の最右翼である。前半1点リードで進んだが、4回に相手の集中攻撃を受け、1イニング13失点。勝負は決した。
この年は和歌山野球団からの6名の選手を迎え、泥臭い粘りの住金野球を全うすることができ、且つ結果を残せたことに満足ではあった。
前年に都市対抗本大会に出場できなかった屈辱と、地獄の練習を味わった選手の成長であった。しかし、目標の北関東第一代表を掴めなかったことが残念であった。
(翌年、日立製作所を破って念願の第一代表を掴んだ)
最後に現役選手へ、晴れの舞台で自分として、チームとして普段通りのパフォーマンスをして下さい。そうすれば自ずと結果はついてきます。勝ちたい勝ちたいと思うよりも、俺たちは負けないという気持ちで最後まであきらめず戦って下さい。
黄獅子旗を授与を見つめる当時の川島浩さん